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〔今日の雑学:1月〕



 一年中のどんな日にも、長い歴史の中で大事件が起こったり、歴史に名を残す偉大な人物が生まれたり、偉大な発見や発明がなされたりしています。

 あるいは、後世の人たちが永遠に楽しめるような魅惑的な音楽や芸術作品が登場したりするものです。

 歴史に多大な影響を与えるような出来事があれば、それに伴い様々な逸話が誕生したりもします。このコーナーでは、その日に関連するそんな逸話のようなものを掲載しています。それなりに示唆するものがありますから、楽しんで下されば嬉しいです。



 毎月のカレンダーに載っているような大事な記念日などは、だれでも大体の見当がつくものです。

 例えば、1月1日「元旦」が国民の祝日だってことは誰でも知っています。でも、1月第2月曜日が「成人の日」となると、中々想い出せない日となります。

 このような国民の祝日などに限らず、たとえば、あなたと同じ誕生日にはどんな有名人がいて、どんな逸話を残してくれたかなども興味が湧きますね。そこで、1月の毎日のことに関連する逸話などを調べてみました。


1月2月3月4月5月6月
7月8月9月10月11月12月
 
1日 ・元旦の由来
・元旦の行事
・鉄腕アトム放送開始
2日 ・初夢は元旦の朝見ないの?
3日 ・お屠蘇は何故飲む
4日 ・牛の鼻紋
5日 ・結構苦労した夏目漱石
6日 ・今日1月6日は良寛忌
7日 ・それでも地球は回っている
・門松に塩鯛や浴衣だって
8日 ・平成スタートの日
・橋の開通式から始まった帯結び
9日 ・お酒の飲めない人はなぜ下戸?
10日 ・ロンドンに世界初の地下鉄開通
 
11日 ・50歳からの猛勉強で偉大な業績
12日 ・雪は見て感動、住んで地獄
13日 ・江戸の上水道
14日 ・小正月(旧正月)の行事
15日 ・成人式の由来
16日 ・実在したオールド・パー
17日 ・金色夜叉の「今月今夜」とは?
18日 ・都バスの起源
19日 ・お寺には魚が一匹?
20日 ・初の海外パックツアー発売
 
21日 ・夢の超音速旅客機コンコルド
22日 ・日本に初めて白熱電灯がともる
23日 ・筆記用具の歴史
24日 ・Vサインを流行させたチャーチル
25日 ・カノッサの屈辱とは?
26日 ・ジェンナーのワクチン発明
27日 ・日の丸の考案者は薩摩藩主
28日 ・天正の少年遣欧使節の受難
29日 ・ペンギンはなぜ北極にいない?
30日 ・煩悩に悩んだ若きガンディー
31日 ・人工衛星の打ち上げ



おもしろ雑学

今月にはこんな面白いお話があるよ!

今日の面白雑学(1月1日)

元旦の由来

 1月1日は、太陽暦の一つであるグレゴリオ暦で、年始最初の日にあたります。現在、多くの国家ではこのグレゴリオ暦が使用されていて、グレゴリオ暦による日にちの管理が世界標準となっています。

 1月1日は、1年の始まりの日であり、「元日」と呼ばれ、この日の朝のことを「元旦」と呼びます。

 もともと、元旦の「旦」という文字は、「日の出」や「朝」を指す言葉で、一年の最初の日を指す言葉です。1月1日は、新年の幕開けの日であり、年のはじめを祝う一年で最初の国民の祝日となっています。

 年が明けると、人々は、新年の安全や幸せを祈念するために、神社仏閣への初詣をし参拝します。本来なら、氏神様や、その年の恵方とされる方角にある神社仏閣などをお参りし、新年の平安と無事を祈るのが慣わしですが、最近では、この風習は意識されなくなり、人々はとりあえず近所の神社やお寺などを詣でるようになりました。

 「恵方」というのは、その年の福徳を司る神「歳徳神」のおられる方角のことで、何事をするにも最も良いとされる方角のことです。

 また、以前には、神社仏閣への参拝は、大晦日の夜に一度参拝して、一旦自宅に帰り、新年が始まったらもう一度参拝していましたが、近年では、このような風習もなくなり、大晦日の夜のうちに出かけて、神社仏閣の境内で元旦を迎える人も多くなりました。

元旦の行事

 皆様、明けましておめでとうございます。本日は1月1日、元旦です。また、当サイトをご訪問して下さいましてありがとうございます。

 今日の面白雑学の第1号は、「正月」のお話です。この正月という言葉は、当然ですが中国から輸入された言葉ですが、もともと「正」という言葉は「初め」とか「改まる」などを意味する言葉です。簡単にいえば、正月とは、年が改まった最初の月というような意味をもっています。日本では正月といえば新年の三が日を意味していました。

 元旦の未明には「年神様」が天下ってきて、一年間の農耕を見守ってくれるとして信仰されてきました。人々は、元日の朝に井戸から初めての水汲みをし神棚に供える「若水汲み」の儀式を行います。

 若水には邪気を取り除く力があるとされ、神棚に供えた後、その水で年神様への供え物を料理したり、家族の食事を作るために使われます。また、その水でお茶をたてたりもします。

 続いて、「屠蘇(とそ)」の儀式へと進みます。「蘇(そ)」とは、「悪鬼を屠(ほふ)る」という意味が込められており、邪気を祓い一年の無病息災を願うのです。屠蘇は一番年下の者から飲むのがしきたりで、三つ重ねの盃の一番上から順に屠蘇を注ぎ、計三回飲んで目上の人に回します。

 こうして、家族は屠蘇を酌み交わし、祝いの膳を囲んで、年神様をもてなすのです。昔は、年神様の恩恵を分かち合うために、年神様に供えた餅等を「としだま」として配るしきたりがありました。年神様への供え物の下げられたものが「としだま」で、「たま」は「魂」の意味でした。供え物には神霊の分霊が宿るとされ、それを頂くことで人々は英気を養い新たな一年に備えます。

 昔は、おとしだまといえば、男の子は凧、女の子は羽子板だったのですが、最近ではポチ袋などに入れたお金を意味するようになりました。

鉄腕アトム放送開始

 鉄腕アトムを知らない日本人なんていませんが、テレビで放送されるようになったのがいつのことだったかを覚えている人もいないでしょう。

 テレビの30分番組で鉄腕アトムが最初に放送されたのは、1963年1月1日から1966年12月31日までで、全部で193話ありました。こうして、鉄腕アトムは、日本で最初の1話30分の本格的連続テレビアニメの地位を獲得したのでした。


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今日の面白雑学(1月2日)

初夢はいつ見る?

 古来より元日の夜から2日の朝、あるいは2日の夜から3日の朝に見る夢を初夢といい、この夢の内容によって1年の吉凶を占う風習があります。2日には、各地で書き初め、仕事始め、発売り、姫始めなど多くの行事があります。

 何故、大晦日の夜から元旦の朝にかけての夢ではなく、元旦の夜から2日の朝までの夢が初夢なのでしょうか。実は、昔は、大晦日の夜から元旦の朝にかけては、眠らない習慣があったため、夢を見ることが出来なかったのです。元旦の夜から2日の朝になって初めて夢が見られるのでした。


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今日の面白雑学(1月3日)

お屠蘇は何故飲む

 どこの家庭でも正月ともなれば「お屠蘇(おとそ)」を飲みます。では、このお屠蘇とは一体なんで飲むのでしょうか。

 お屠蘇は、一年間の邪気を払い、長寿を願って新年正月に飲む薬酒のことをいいますが、この「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼を屠る(ほふる)、つまりやっつけるという意味です。正月には、お屠蘇を飲んで、無病息災を願うのです。

 古来より、「一人これを呑めば一家病無く、一家これを呑めば一里病無し」とされ、正月の祝い膳には欠かせないものとなっています。

 お屠蘇の作り方は、日本酒や味醂(みりん)や砂糖を加えたものに、山椒や桔梗をはじめ数種の薬草を組み合わせた「屠蘇散」を浸して作ります。

 お屠蘇は、新年の挨拶を交わした後、若い者から順番に飲むのが慣わしです。正式な飲み方としては、三つ重ねた杯で、各杯を1回ずつ、三度飲みまわします。古来中国では、「薬を飲むときは君より臣が、親より子が先に」という教えがあり、若い人から飲むのは一種の毒見的意味合いがあるとされます。


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今日の面白雑学(1月4日)

牛の鼻紋

 十二支に動物をあてたいわゆる「十二支獣」は、中国の戦国時代に始まったとされています。元々、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥という十二支には、記号的な意味しかなかったのですが、これを覚え安くするために動物をあてはめたものだといいます。

 これによって、丑は牛となりました。今やこの牛は大切な食料としての意味が強くなっていますが、この血統が大事で、とても正確な台帳に基づいて厳しく管理されています。

 その牛の、識別法がユニークです。人間なら、DNAや指紋などがありますが、牛の場合には、「鼻紋」が用いられます。牛の鼻に墨を塗って、紙に写し取ると、人間の指紋同様、一頭ずつすべて異なる模様が現れます。

 こうして、牛の鼻紋は、牛の血統書である登録証に必ず添付され、その牛が登録証に記載されている内容に間違いないことが証明されるのです。


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今日の面白雑学(1月5日)

結構苦労した夏目漱石

 「吾輩は猫である」で有名な夏目漱石は、1867年1月5日、明治維新の前日に現在の新宿区牛込喜久井町で生まれました。当時、夏目家は町名主をになう名家であり「菊に井桁」の紋章を用いていたことが、「喜久井町」という町内の由来となっているほどです。自宅前にある坂も「夏目坂」と呼ばれています。

 しかし、明治維新によりこの名家は没落することとなり、5男3女の末っ子であった漱石は、古道具屋か八百屋ともいわれる家に里子に出され、赤ん坊だった漱石は毎晩、笊(ざる)に入れられて四谷辺りの夜店に晒される始末でした。

 一旦は実家に戻るのですが、満1歳のときにまたもや現在の新宿2丁目の門前名主であった塩原家へ養子に出されました。ここでも不運は続き、10歳の時には養父母が離婚したことで、再び実家に戻されたのでした。

 後に大文豪となり名声を博した夏目漱石でしたが、このように幼年期には結構苦労もしたのでした。


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今日の面白雑学(1月6日)

今日1月6日は良寛忌

 一生を通して子供たちと遊んだことで有名な良寛は、天保2年1月6日に没したとされています。彼は、江戸時代の曹洞宗の僧侶であり、歌人、漢詩人、書家でもありました。俗名を山本栄蔵または文孝と名乗り、その号は大愚でした。

 1月6日が良寛の命日であることから、この日は「良寛忌」として、新潟県の良寛記念館などで催し物が行われています。

 良寛は、越後は出雲崎の名主兼神職の子として1758年に生まれ、18歳で出家し、22歳ころから10余年の間、国仙和尚という人に従い備中玉島円通寺で修業しました。

 生涯を通じてお寺を持つことはなく各地に草庵を結びながら托鉢により生活を続け、47歳にして越後国上山の五合庵に入りました。彼は法を説かずに多くの人々に感動や感化を与えて敬愛されました。

 生前には、中央歌壇とのつながりがなかったために、彼の純真無垢な歌風は、世間に広く伝わることがありませんでした。明治末期以降になると正しく評価されるようになり、現在では、彼の人間味あるれる人柄は多くの童話などに描かれています。

良寛は、「散る桜 残る桜も 散る桜」という辞世の句を残しています。


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今日の面白雑学(1月7日)

それでも地球は回っている

 人類の歴史の中で、1月に起こった出来事や事件の中で、特記すべきもののひとつは、ガリレオ・ガリレイの物語でしょう。

 昔の話になりますが、1610年1月7日、イタリアの天才天文学者・物理学者・哲学者、ガリレオ・ガリレイは、手製の望遠鏡を用いて、木星の周囲を回る4つの衛星「イオ」「エウロパ」「ガニメデ」および「カリスト」を発見しました。そのため、彼の偉業を讃えて、これらの4つの衛星は、まとめて「ガリレオ衛星」と呼ばれています。

 この他にも、ガリレオは、「太陽黒点」「月面の凹凸」「金星の公転と満ち欠け」などを発見し、コペルニクスの地動説を裏付ける有力な証拠としました。これは当時のローマのキリスト教においては受け入れがたい説であったために、ガリレオは異端審問所に召還され、宗教裁判にかけられることとなりました。

 地動説に関する一切の著述を禁止されてしまいました。しかし、彼は信念を曲げることなく「天文対話」を書き上げたのですが、再び宗教裁判に掛けられ、この本は出版禁止とされた上に、投獄までされてしまいます。ガリレオは宗教裁判により、地動説を唱えることを放棄させられるのですが、彼はいいました。「それでも地球は回っている」と。

 ガリレオによる大きな功績は、実験により理論を証明するという、近代科学の基礎を築いたことにあります。彼に悲運を与えたあの宗教裁判から350年を経過した、1992年、ローマ法王ヨハネス=パウロス2世は、ガリレオの宗教裁判が誤りであったことを認めました。そして、ローマ法王はガリレオの破門を解いたのでした。

門松に塩鯛や浴衣だって

 12月13日ころに山から採ってきた松を、元日から7日、または小正月(15日ころ)まで門口に立てる門松は、お松様とか門木(かどき)とも呼ばれる。

 本来、年神様を迎えるための依代(よりしろ)として立てられる門松だが、もともとは松と竹に限ったものではなく、楢、椿、栃、杉、水木、朴(ほほ)なども用いられたという。

 一説によると、天皇の行幸などの時にきたない家や道端のものを隠すためのものだったともいう。

 現在のように竹の束を立てるものは、徳川家康が「三方が原の合戦」に負けて浜松城に立てこもった時の正月に、弾丸よけの意味もあって作ったものともいわれる。

 これが江戸時代に武家屋敷に広まったが、江戸時代には珍しい門松がいろいろとあったらしく、塩鯛や浴衣を飾ったという記録も残っている。


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今日の面白雑学(1月8日)

平成スタートの日

 1989年1月8日、前日の昭和天皇の崩御を受けて、この日から平成という年号に変わり、大化以来247番目の元号となった。

 この時代までは、元号は中国の古典から採ることが慣例で、「平成」は『史記』の五帝本紀の「内平らかに外成る」と、『書経』の大禹謨(たいうぼ)の「地平らかに天成る」より採られている。

橋の開通式から始まった帯結び

 普段はジーンズ姿でも、お正月だけは着物でおしとやかに、という女性もいることだろう。

 着物の帯結びで、もっとも代表的なのが「お太鼓結び」だが、これは1817年に江戸亀戸天神に太鼓橋が完成したときに、考案されたものだという。

 橋の開通式に招かれた深川の芸者さんたちが、お祝いを盛り上げようといろいろ考えた末、橋の形に似せて帯を結んだのが始まり。なんとも粋な計らいである。

 それでお太鼓結びというようになったのだが、ところでこの結び方は、それまでと違って、帯締めなどの補助的な紐を使って形を作るもの。以来、着物の帯結びには、帯締めや帯揚げが使われるのが一般的になり、結びの形も多彩になったという。


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今日の面白雑学(1月9日)

お酒の飲めない人はなぜ下戸?

 年末年始ともなうと、やれ正月だ、新年会だと、お酒を飲む機会が多く、『下戸(げこ)』の人にはつらい季節となる。

 ところで、この『下戸』という言葉、その語源ははるか昔の大宝律令(702年)にまで遡るという。大宝律令が定めた戸籍では、成人男子が6人以上、8人以下の家を「上戸」、成人男子が3人以下の家を「下戸」として区分していた。

 成人男子が多い家は、働き手が多いということで、家の規模も大きく、蓄えもあった。これが酒の蓄えの多い、少ないに通じ、ひいては酒が飲める飲めないという言い表し方になってきたのである。

 下戸の人の中には、もともとアルコールの代謝ができない体質の人もいて、日本人は欧米人に比べてその割合が高いという。上戸のみなさん、お酒に強いからといって、弱い人への無理強いは禁物ですよ。上戸だからといって、別に偉いわけじゃないんだから。


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今日の面白雑学(1月10日)

ロンドンに世界初の地下鉄開通

 世界中で50以上の大都市に地下鉄が通っているが、最も古いのはロンドンで、1863年1月10日に開通している。もちろん当時は蒸気機関車で、電化されたのは1905年のことであった。

 第2次大戦中、ドイツの空襲を受けたロンドン市民は、地下鉄を防空壕がわりにしたという。

 ニューヨークでも1866年にアルフレッド・エリー・ビーチという人物が個人事業として空気の圧力で走る地下鉄(全長94m)の試作を行っている。彼は雑誌のオーナー兼編集長で、盲人用タイプライター、ケーブル鉄道などの発明者としても知られる人物である。

 交通渋滞の緩和のために考案したものだったが、政治的な困難に遭い、計画は頓挫してしまった。1912年になって本格的な地下鉄建設が始まった時、忘れ去られたビーチの地下鉄駅にぶつかり、人夫たちは驚いたという逸話が残っている。



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今日の面白雑学(1月11日)

50歳からの猛勉強で偉大な業績

 1745年1月11日、上総に生まれた伊能忠敬は、18歳で下総佐原の伊能氏の養子となり、酒造や米穀取引に打ち込んで家を盛り返した。

 そこで終わらないのが彼のすごいところ。なんと50歳で隠居し、江戸へ出て、幕府の天文方で西洋流の暦学者だった高橋至時に師事する。

 天文・暦学・測量を学び、1800年に蝦夷(北海道)南東海岸を測量したのを手始めに、以降18年にわたり日本全国の沿岸を測量してまわった。

 彼は、志半ばにして、1818年に没するのだが、日本の全国地図を作りたいと願う彼の遺志は弟子たちが継ぎ、1821年には「大日本沿海輿地全図(伊能図)」と「大日本沿海実測録」が完成した。

 その精度の高さは、シーボルトが1830年ころに持ち帰った写しから欧州でも高い評価を得て、明治以降の近代的地図作製の根拠ともなった。


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今日の面白雑学(1月12日)

雪は見て感動、住んで地獄

 別に1月12日に関係はない話だけれど、辺り一面が白銀に覆われる冬景色は美しいものだが、雪国に住む人々にとってはこれが苦労の種となる。

 真っ白な雪景色は観て感動するものだが、見ると住むとでは大違いである。屋根の雪おろしや道路の雪かき仕事があるからだ。

 ふんわりと見えても雪の重さは想像以上であり、大雪で家が潰れることもしばしば起こる。降り始めたばかりの雪は密度が0・1くらいだが、日が経つにつれて締まってくる。まして、雨でも降ろうものなら大変なことになる。

 仮に密度を 0.3 とし、30坪の家の屋根に50センチの雪が積もるとすると、その重さは 15トン にもなる。これは体重70キロの人が200人以上も屋根にのった重さに相当する。

 雪国の家では屋根の傾斜を急にしたり、融雪の工夫をこらしているが、大雪が降ったときは、やはり雪おろしが必要になる。また、重さばかりでなく、屋根からの突然の雪崩による事故を防ぐためにも、雪おろしはかかせないのである。しかも、屋根からの転落の危険もあるのだ。


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今日の面白雑学(1月13日)

江戸の上水道

 18世紀には世界最大規模の都市となった江戸の人々のの生活を支えたのが水道設備である。中でも神田上水、千川上水、玉川上水は江戸三上水といわれ、この水を産湯に使ったというのが江戸っ子の自慢だったという。

 神田上水は江戸開府(1600年)に際し、徳川家康の命により開設した日本初、全長63kmの上水道で、井之頭池を水源に目白台~神田~京橋方面に給水した。

 1653年1月13日、将軍家綱から許可が降りた玉川上水は、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟によって敷設され、多摩川の水を羽村市で取り入れ、四谷見付で二分、江戸城と虎ノ門へ給水された。

 玉川上水完成で利用が減った神田上水は、1900年の水道敷設で廃止されたが、玉川上水は明治以降も新宿区淀橋の浄水場に通水され、1965年の同浄水場廃止後も立川市砂川から東村山市の浄水場へ送られている。


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今日の面白雑学(1月14日)

小正月(旧正月)の行事

 旧暦では満月の十五夜(太陽暦では14日・15日前後)を年の境としていたため、現在も14日の翌日15日は、小正月としてさまざまな行事が行なわれている。

 今では大晦日の「なまはげ」も元は小正月の行事だった。道祖神、どんど焼き、どんどん焼き、さんくろうなどといって、この日に正月の松飾りなどを焼いて、一年の無病息災を祈る行事は各地に残っている。

 地方によっては雪でつくったかまくらや、どんどん小屋という仮小屋に、小正月前夜の今夜から集まって餅などを食べる習慣もある。

 なかでもおもしろいのが、成木責(なりきぜめ)という行事で、これは柿や梨などの果樹を棒で叩いていじめ、豊作を約束させようとする行事だ。粥を炊き、かきまぜる棒についた米粒の多少で農作物の豊凶を占う粥占(かゆうら)などの行事を行う地方もある。


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今日の面白雑学(1月15日)

成人式の由来

 成人式の原型ともいえる「元服の式」は、すでに7世紀の天武天皇の時代からあったという。皇族や貴族の子弟が15歳前後になると髪型を改めて烏帽子(えぼし)をかぶり、成人の仲間入りをする儀式が「元服の式」であった。

 江戸時代になると庶民の間にも広まり、前髪を落として元服を祝うようになった。女性では、長い髪を結い上げる「髪上げの儀」やお歯黒や眉を落とすなどの儀式があった。

 このように、昔は、成人になったことを姿形にも表す儀式を行っていたのである。現代では、市町村などの自治体が催すお祝いの会が主な行事となっているが、女性は着物で着飾り、男性もネクタイ姿で気分を一新する日となる。ともあれ独立した社会人になる節目であることにはかわりない。新成人のみなさん、おめでとう!


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今日の面白雑学(1月16日)

実在したオールド・パー

 1920年1月16日、アメリカで禁酒法が実施された。しかし、マフィアを太らせ、社会を混乱させただけだったため、13年間で廃止されたのである。

 さて、高級スコッチ・ウィスキーとして有名な「オールド・パー」のラベルに描かれた老人は、実在の人物だというのをご存じだろうか。

 モデルとなったトーマス・パーなる人物は、1483年にスコットランドで生まれ、1635年に152歳で死んだという。しかも、初婚は80歳であり、子供2人を幼くして亡くし、122歳で妻も他界した。

 驚くことに、すぐ再婚したのだが、その間に恋愛事件も起こしているという超人ぶりだ。

 彼の長寿ぶりはイングランドまで伝わり、死の直前にチャールズ1世がロンドンに招き、ルーベンスに肖像画を描かせた。それがオールド・パーのラベルのもとになったという。あの四角のビンも彼の愛用したワインのビンに由来しているのである。


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今日の面白雑学(1月17日)

金色夜叉の「今月今夜」とは?

 尾崎紅葉の「金色夜叉」に「来年の今月今夜…僕の涙で必ず月を曇らしてみせる」という有名な一節がある。

 金剛石(ダイヤモンド)に目が眩んで心変わりしたお宮を貫一が足蹴にしてはく名台詞だ。実はこの「今月今夜」とは1月17日のことである。原典にあたれば「一月十七日、宮さん、善く覚えてお置き」とある。

 これにちなみ、物語の舞台となった熱海市では1月17日に「紅葉祭」を催している。ところでこの小説は実際の事件がもとになっていて、貫一は児童文学者・巌谷小波がモデルだとされる。

 彼には芝の高級料亭の女給・須磨という恋人がいたが、京都の新聞社に勤めている間に金の力で須磨を博物館員に横取りされてしまった。彼は彼女と結婚するつもりはなく、たいして怒らなかったが、友人の紅葉は激怒して料亭に乗り込み、須磨を足蹴にしたとの逸話が残っている。


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今日の面白雑学(1月18日)

都バスの起源

 1923年9月1日に発生した関東大震災において、路面電車が大打撃を受けた東京市は、電車と乗合自動車(バス)を兼営することを決定し、フォード社へ11人乗りの車両1000台を発注し、電車乗務員のなかから、運転手1000人を募集した。

 そして、1924年1月18日午前7時、東京市電気局の乗合自動車が、巣鴨線 (巣鴨~東京駅間)と渋谷線(中渋谷~東京駅間)の2系統で一斉にスタートした。

 運転時間は、平日が午前7時~11時と午後3時~7時、日曜祭日などは午前7時~午後7時で、約3分おきに発車した。料金は1区10銭だった。

 しかし、陸軍自動車隊などで教習を受けた即成の運転手は、2月だけで90件もの事故を起こし、市民の評判はよくなかったらしい。自動車自体も乗り心地が悪く、ガタ馬車(円太郎馬車)と形が似ていたこともあって、市民たちは「円太郎」と呼んだという。


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今日の面白雑学(1月19日)

お寺には魚が一匹?

 お寺には魚がいるといえば不思議の思うかもしれません。お寺には魚がいるのです。そう、お坊さんが読経の際に使う木魚のことです。

 中が空洞で丸い形をしているが、もともとは文字どおり魚の形をした木の板で、叩いて時を知らせるために使われていたという。

 これが現在の木魚の原型となったようだが、魚を型どったのは、修行中のお坊さんの戒めとするためだ。いつも目を開いている魚を見習って、修行中に眠らないようにするためだとか。

 しかし、実際には魚は眠らないのではなく、まぶたがないので寝ている時も目を閉じることがないのだ。これを知ったら昔のお坊さんも、魚を戒めに使わなかったかも知れない。ちなみにフグは例外で、目を閉じる魚として知られている。


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今日の面白雑学(1月20日)

初の海外パックツアー発売

 前年の海外旅行自由化を受けて、1965年1月20日、日本航空が日本初の本格的海外パッケージ・ツアーとして「ジャルパック(JALPAK)」を発売、募集を始めた。

 旅行業者が企画・主催するパック・ツアーは、人気のあるコースを設定し、費用・日程・宿泊先・最少催行人員などを明らかにしたうえで客を募るものであった。

 高度成長期とあいまってたちまち大人気となり、海外旅行の代名詞となるほどだった「ジャルパック」だが、海外でもツアー参加者のマナーの悪さから「ノーキョー(農協)」と並んで現地語化するほど有名になった。

 ちなみに発売以来延べ213万人が利用した「ジャルパック」も、海外旅行に何度もでかけるリピーターが増え、利用者の希望にあわせた旅行に需要が増えた、1991年1月に商品名を「I’LL(アイル)」に変更している。



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今日の面白雑学(1月21日)

夢の超音速旅客機コンコルド

 1976年1月21日、世界初の超音速旅客機「コンコルド」2機が、それぞれ100人の乗客を乗せて初の商業飛行に飛びたった。

 1機はフランス航空機で、パリからリオデジャネイロへ、もう1機はイギリス航空機で、ロンドンからペルシア湾のバーレーンへ向かった。

 コンコルドとは「協調・調和」という意味で、全長62.7m、全幅25.6m、最大巡航速度マッハ2.05、航続距離6350kmの驚異的飛行機であった。1962年の共同開発協定成立以来、英仏両国は約1兆円の巨額な開発・製作費を投入したという。

 しかし、世界的インフレで1機の値段は、約190億円まで上がり、買い手がつかなかったため、政府に押しつけられた形で両国の航空会社が合わせて9機を購入することとなり、ようやく、就航の運びとなった。しかし、騒音渦と大気汚染の問題などから、結局、2002年10月24日に退役した。


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今日の面白雑学(1月22日)

日本に初めて白熱電灯がともる

 1876年、イギリス人の指導で初めてアーク灯がともったことに注目した大倉喜八郎などが、5年後に東京電灯会社を設立した。

 そして、1887年1月22日、東京電灯会社が営業開始の手始めとして、鹿鳴館に初めて白熱電灯をともらせた。

 3カ月後の1887年4月22日からは、それまでのガス灯にかわって東京の夜の街に電灯がともるようになる。明治前期の公的事業はほとんど官営で進められたが、このように電気事業だけは民営だったのである。

 ちなみに、電灯の生みの親エジソンが作った電球には、京都府綴喜郡八幡町で採れた竹を焼いて作った炭素が、フィラメントに使われていたそうだ。


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今日の面白雑学(1月23日)

筆記用具の歴史

 毎月23日は「ふみの日」。さて、紙の発明以来、人類が最も長く愛用してきた筆記用具は、東洋では筆、西洋でペンである。

 ペンはラテン語の「鳥の羽根(penna)」が語源になっているように、18世紀までは鵞鳥の羽根などが主流で、19世紀になってその役目は金属製がとってかわった。

 1809年にはイギリスのジョセフ・ブラマーが万年筆の特許を取り、1884年にはアメリカのジョセフ・ウォーターマンが実用的な万年筆を考案している。

 ボールペンは1888年、アメリカのジョン・ラウドが特許を取ったが、実用化したのはアメリカのミルトン・レイノルズで、1945年に1本12ドル 50セントで売り出した。しかし、不備な点も多く、半年で10万本以上が返品されてしまった。それでも、ボールペンの改良は続き、のちに戦後アメリカ経済の一翼を担うほどに成長した。


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今日の面白雑学(1月24日)

Vサインを流行させたチャーチル

 1965年1月24日、英国の政治家ウィンストン・レオナルド・チャーチルが、「もうあきあきした」という臨終の言葉を残し、90歳で他界した。

 名門の子として生まれ、キューバ反乱鎮圧やスーダン遠征に参加、新聞記者として従軍したこともあった。1900年に下院に初当選し、以来、政府の重要なポストを歴任し、40年に首相となる。

 ナチスの猛攻と戦い抜くことを国民に訴えて、ナチスを撃退した。45年に下野したが朝鮮戦争で緊張が高まった51年に再び首相就任する。55年に引退するまで、戦争の度に頼りにされてきたチャーチルだったが、勝利を意味するサインとして世界共通になったVサインは、なんと彼が最初に始めたのだとか。

 文筆家、雄弁家としても知られ、53年には「第2次大戦回顧録」でノーベル文学賞を受賞している。


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今日の面白雑学(1月25日)

カノッサの屈辱とは?

 かつてTV番組のタイトルにもなった「カノッサの屈辱」という言葉の意味をご存じだろうか。これは聖職者の任命権が教皇と世俗君主(皇帝)のどちらにあるのかという対立からきている言葉である。

 とりわけ、1075年に教皇グレゴリウス7世が世俗君主による叙任を禁じてからは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)皇帝ハイリンヒ4世との間に激しい抗争が生じた。

 皇帝は76年に教皇の廃位を要求したが、逆に教皇は皇帝を破門してしまう。教会の後ろ盾をなくした皇帝はドイツ諸侯の反乱を恐れ、77年1月25日、ようやく教皇から許しを得る機会をもつことができた。

 皇帝は雪深いアルプスを越え、教皇の滞在している北イタリアのカノッサ城へ到着したが、教皇は悔い改めたことを態度で示せと要求する。皇帝は雪の降る城外で、帽子もかぶらず裸足のまま3日間も謝り続ける屈辱を受け、ようやく破門を解かれたという。


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今日の面白雑学(1月26日)

ジェンナーのワクチン発明

 1823年1月26日、種痘法(ワクチン)の発明者エドワード・ジェンナーが死去した。1749年5月17日、イギリスのバークリーに生まれた彼は、ロンドンで学び、故郷に戻って病院を開業する。

 農場を回診するうち、牛痘(牛の天然痘で、人間は軽い症状で済む)に1度かかった人々は人痘(人間の天然痘)にはかからないことを知り、天然痘の予防法の研究に没頭することになる。

 1796年5月14日、彼は牛痘の膿汁をジェームズ・フィップス少年に接種する人体実験を行う。そして、6週間後に人痘の膿汁を接種したが、少年は天然痘にはかからないことを確認した。

 ジェンナーの発見はアメリカにも伝わり、ジェファーソン大統領やその家族も種痘を受けた。1802年にはイギリス議会から賞金1万ポンド(のち2万ポンドをプラス)が贈られ、ロシア皇帝はフィップス少年にワクチノフという名を贈った。


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今日の面白雑学(1月27日)

日の丸の考案者は薩摩藩主

 太陽をかたどったデザインで日章旗とも呼ばれる「日の丸」は、1853年のペリー来航後に対外関係上から国旗の制定が必要となり、江戸幕府が薩摩藩主島津斉彬の考案に基づいて採用された。

 正式に日の丸が日本国を表す旗となったのは、1870年1月27日付の太政官布告第 57号商船規則からだが、それ以前からも使われており、12世紀末の源平合戦の時代には日の丸の扇が流行し、家紋や馬印にされている。

 14世紀初頭の後醍醐天皇のころにも旗印とされ、16世紀半ばの川中島の合戦では武田信玄、上杉謙信の両軍とも日の丸の旗を高々と掲げて対陣したという。

 ちなみに、軍艦用の国旗は商船用とは別に、1870年10月3日付の太政官布告651号による「海軍御旗章国旗章並諸旗章」で規定されており、商船用とは若干寸法に違いがある。


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今日の面白雑学(1月28日)

天正の少年遣欧使節の受難

 1582年1月28日、大友・有馬・大村のキリシタン大名3氏の命を受け、イタリア人の耶蘇会宣教師ヴァリャーニに率いられた少年たちがローマへ向け旅立った。

 メンバーは12歳の正使の伊藤マンショ、副使の中浦ジュリアンと原マルチノ、千々石(ちぢわ)ミゲルの4人で、キリシタン大名の一族やセミナリオ(宗教学校)で学んだ者だった。

 マラッカ海峡、喜望峰を経てローマへ到着した彼らは、教皇グレゴリオ13世に謁見する。1590年に帰国したが、日本は禁教へと傾いていた。マンショは豊臣秀吉に地球儀、時計、測量器などを献上する名誉を得たが、ミゲルは帰国後まもなく棄教する。

 ジュリアンとマルチノは布教活動や耶蘇会出版に従事したが、徳川家康のキリスト教禁止令により、マルチノは1916年にマカオへ追放され、ミゲルは1633年に長崎で殉教している。


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今日の面白雑学(1月29日)

ペンギンはなぜ北極にいない?

 1957年1月29日、日本の南極観測隊がオングル島上陸に成功、昭和基地を設営した。

 さて、南極といえばペンギンだが、ペンギンが棲息しているのは南極だけではない。探検家のマゼラン一行はペンギンを食べながら進んだというが、ペンギンはオーストラリアやニュージーランドの近く、南アメリカのガパゴス諸島や南アフリカの南端にまで棲んでいる。

 ところが南極と同じように寒くても、北極にはペンギンがいない。これはもともと南極に棲んでいたペンギンが、フンボルト寒流によって他の地へ運ばれたためと考えられている。

 フンボルト寒流の範囲は南半球のみで、北極までは届かないのだ。そのかわり南極には白熊(ホッキョクグマ)はいない。ちなみにペンギンの翼が退化してしまっているのは、南極には敵が少ないので、空を飛ぶ必要がなくなったからだという説もある。


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今日の面白雑学(1月30日)

煩悩に悩んだ若きガンディー

 インド独立の父、モハンダス「マハトゥマ」ガンディーが、1948年1月30日、デリーで狂信的ヒンズー教徒に射殺された。

 1869年10月2日にグジャラトに生まれたガンディーは、「非暴力は人間にゆだねられた最大の力である」とし、非暴力主義を貫いた聖人として知られるが、若いころは人並みに煩悩に悩まされていたといおう。

 13歳で同年のカストルバイと結婚した彼は、それにより性に目覚め、衝動を抑えるのに苦労したという。

 ガンディーが16歳の時、父親が病をこじらせて床に臥した。ある夜、叔父と看病を交代して寝室に戻った彼は、妻の寝顔を見て欲望が抑えられなくなったが、運悪く、父は彼が房事に耽っている最中に逝ってしまったのだ。

 彼はいたく後悔したが、それでも自分を抑えられず、18歳にしてようやく酒・女・肉食を断とうと誓ったという。


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今日の面白雑学(1月31日)

人工衛星の打ち上げ

 1958年1月31日、宇宙開発でソ連に遅れていたアメリカが人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに成功した。

 人工衛星の打ち上げは、1957年10月のソ連のスプートニク1号が世界初で、1965年にフランス、1970年に日本、中華人民共和国がそれぞれ成功している。

 当初は軍事、科学などが目的だったが、航海、測地、気象、通信にも利用されるようになった。特に通信衛星によるTV放送は現在では生活に密着している。

 1967年にはイギリスの国営放送局BBCが世界31カ国に衛星生中継番組「アワ・ワールド」を放送した。ザ・ビートルズが新曲『オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ(愛こそすべて)』を演奏した。コーラスにはローリング・ストーンズのメンバーらも参加し、世界的な話題となった。衛星放送の恒常的な実用化は、日本のNHKが世界初で、1987年にスタートしている。