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〔今日の雑学:4月〕


 一年中のどんな日にも、長い歴史の中で大事件が起こったり、歴史に名を残す偉大な人物が生まれたり、偉大な発見や発明がなされたりしています。

 あるいは、後世の人たちが永遠に楽しめるような魅惑的な音楽や芸術作品が登場したりするものです。

 歴史に多大な影響を与えるような出来事があれば、それに伴い様々な逸話が誕生したりもします。このコーナーでは、その日に関連するそんな逸話のようなものを掲載しています。それなりに示唆するものがありますから、楽しんで下されば嬉しいです。



 毎月のカレンダーに載っているような大事な記念日などは、だれでも大体の見当がつくものです。

 例えば、4月29日が「昭和の日」で、しかもその日から5月5日までが「ゴールデンウィーク」だということは誰でも知っています。でも、4月10日~4月16日に「女性週間」があるなんてことは、ちょっと想像できないですね。

 このような国民の祝日などに限らず、たとえば、あなたと同じ誕生日にはどんな有名人がいて、どんな逸話を残してくれたかなども興味が湧きますね。そこで、4月の毎日のことに関連する逸話などを調べてみました。


1月2月3月4月5月6月
7月8月9月10月11月12月
 
1日 ・エイプリル・フールの起源
2日 ・今日は高村光太郎の蓮翹忌
3日 ・慶應義塾大学の成り立ち
4日 ・世界初の労働者政治運動
5日 ・戦争好きなチャーチル
6日 ・北極点到達の日
7日 ・復活祭
8日 ・花祭
9日 ・大仏様のパンチパーマ
10日 ・プリンセス・ツムギの誕生
 
11日 ・花の命は短くて
12日 ・地球は青かった
13日 ・間宮林蔵は隠密だった
14日 ・タイタニック号の奇妙な偶然
15日 ・モナ・リザは高コレステロール
16日 ・かすみか雲か
17日 ・徳川家康の死因
18日 ・引っ越し93回の葛飾北斎
19日 ・梅毒で亡くなった歴史上の人物
20日 ・菅原道真の怨霊が都を震撼
 
21日 ・一枚の紙きれから誕生した文豪
22日 ・レーニンの獄中からの秘密通信
23日 ・サン・ジョルディの日のおこり
24日 ・蜃気楼って何だろう?
25日 ・サンドイッチ諸島の名付け親
26日 ・フランス国歌の誕生
27日 ・朝の海晴れ 終日いい天気?
28日 ・魂を取られるか、切腹するか
29日 ・昭和天皇は処刑されそうだった
30日 ・女の一念、皮膚をも残す

おもしろ雑学

今月にはこんな面白いお話があるよ!

今日の面白雑学(4月1日)

エイプリル・フールの起源

 4月1日は、エイプリル・フール(April Fool’s Day)の日です。「4月馬鹿」「万愚節」などとも訳されるが、かるいイタズラやもっともらしい嘘をついて人をかついでもいい日という習慣は、欧米では古くから行われていた。

 日本では大正時代に広まり、今では世界中の多くの地域で行なわれているが、その由来ははっきりしない。一説に、キリストが生前にユダヤ人に愚弄された故事を忘れないための行事とする話がある。

 また、16世紀なかばのフランスで、1年の始まりをそれまでの春分の祭りから1月1日に改めた際に、これを喜ばない人々が昔ながらの正月の祭りを4月1日に催したのが起源とする説もある。

 さらにはインドで、春分の日から悟りの修業を行い、月末にそれが終わるとまた迷い出すので、この日を揶揄日と呼んでからかったことに起源を求める説もある。

 ちなみにフランスでは、かつがれた者は「4月馬鹿」と呼ばれるかわりに「4月の魚」(ポアッソン・ダヴリル=鯖)という。これは4月によく釣られる馬鹿魚と言う意味だ。


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今日の面白雑学(4月2日)

今日は高村光太郎の蓮翹忌

 詩人・彫刻家として知られる高村光太郎が、1956年4月2日に他界した。これにより高村光太郎記念会の主催によって、4月2日は光太郎を偲ぶ「蓮翹(れんぎょう)忌」が行われる。

 光太郎は1883年3月13日、彫刻家・高村光雲の長男として東京に生まれ、東京美術学校(のちの芸大)彫塑科へと進学する。彼は早くから短歌を『明星』『スバル』に発表し、次第に白樺派風の理想主義に傾倒していく。

 光太郎は、1906~9年には欧米へ留学し、ロダンの影響を受けることになる。帰国後は窮乏生活を続けながらも、彫刻、詩を発表するほか、翻訳・随筆などを通してロダンをはじめ欧米の芸術思潮の紹介・美術批評の活動を展開した。

 彼の芸術界に与えた影響も大きい。代表作『智恵子抄』(1941年刊)は、光太郎の精神的危機を救った智恵子との結婚生活、妻の狂気の時期、死後の追慕を詠った愛の詩集である。


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今日の面白雑学(4月3日)

慶應義塾大学の成り立ち

 1855年に緒方洪庵の適々斎塾に学び、塾頭となった福沢諭吉は、1858年に藩命により江戸へ向かい、築地鉄砲洲に蘭学塾(のちに英学塾)を開いた。

 明治維新に際して1868年4月3日、これを芝新銭座に移し、年号にちなみ慶應義塾と改称する。そして、1871年には三田に移し、1890年に大学部、1898年に幼稚舎(小学校)や普通学科(中学校)を設置する。

 一貫教育体制を整え、1920年、大学令で大学となり、理財科(経済学部の前身)は多くの財界人を送り出すことになる。さらに、1844年には藤原工業大学を合併、1849年に新制大学となった。

 現在は、文・経済・法・商・医・理工・総合政策・環境情報の各学部からなる。ところで、幕府の遣欧使節や軍艦購入使節に随行しているにもかかわらず、諭吉は不思議なことに官職にはついていない。これは自らの主義で明治政府への出仕を辞退したためで、その在野精神は現在の慶應大学にも受け継がれている。


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今日の面白雑学(4月4日)

世界初の労働者政治運動

 イギリスで、1832年の選挙法改正に不満を持った労働者や一部商工業者が、オーエン、ラベット、アトウッドらを中心に結束。37年に普通選挙権の要求を中心とする人民憲章(People’s Charter/Chartistの名の由来)を作成、議会に請願を行なった。

 要求はうけ入れられなかったが、運動は次第に広まり「チャーチスト運動」として多数の労働者の支持を獲得した。世界初の労働者政治運動となったチャーチスト運動は、署名・大衆集会などを展開し、一部急進派はストライキを決行。時には警官と大衝突を起こすまでに発展していった。

 39年11月にはツルハシを持った2000人の坑夫が反抗を試みたが、多数が警官に殺害されて鎮圧。48 年の今日、ロンドンで開かれた大請願運動も政府に弾圧され、内部分裂もあってこの運動は実を結ばずに消滅していった。


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今日の面白雑学(4月5日)

戦争好きなチャーチル

 第2次世界大戦ではルーズベルトやスターリンとともに連合国側のリーダーとして腕をふるい、1953年には『第2次大戦回顧録』でノーベル文学賞も受賞した軍人・政治家、ウィンストン・チャーチルは1955年の4月5日、政界を引退した。

 彼は腕白小僧で、子供のころから戦争ごっこが大好きだった。保守党の下院議員だった父親は、息子を法律家にしたいと思っていたが、中学生になったチャーチルが弟とオモチャの兵隊で夢中になって戦争ごっこをしているのを見て、息子はもしかしたら軍人に向いているかもしれないと考えるようになった。

 父がチャーチルに「軍人になりたいか?」とたずねたると、彼は「なりたいです」と即座に答えたという。父親は息子を法律家にすることを諦め、軍人への道を選ばせることにした。チャーチルは自伝で「オモチャの兵隊が私の人生の流れを変えた」と回顧している。


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今日の面白雑学(4月6日)

北極点到達の日

 アメリカ海軍の軍人で探検家のロバート・エドウィン・ピアリ(1856~1920年)は、1886年以降、数度にわたってグリーンランドを探検した。

 1898年以降は北極点到達を目指し、1906年には極点に300kmの北緯87度06分まで至ったが、断念することとなった。

 そして、6度目の挑戦となる1909年には、グリーンランド側から西経70度の経線に沿って北上、エルズミア島から一気に進み、4月6日、黒人の従者と4人のエスキモーとともについに北極点へ到達した。

 北極点は北緯90度の地球自転軸が北半球の地表と交わる地点(北極海のほぼ中央)と、磁極上の北極(北磁極)とがあるが、ピアリが到達したのは前者である。

 北磁極はブーシア半島の北北西のプリンス・オブ・ウェールズ島(現在およそ西経101度0分・北緯76度20分)にある。ちなみに日本人では、日大隊、単身の植村直巳、バイクによる風間深志、女優の和泉雅子が北極点到達に成功している。


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今日の面白雑学(4月7日)

復活祭

 春のこの時期、キリスト教では、イエス・キリストが死んで3日目に復活したことを祝う「復活祭(Easter)」が行われる。

 復活祭はキリスト教最古の祝日で、冬のクリスマスに対し、春の最大の祭りとなっている。

 復活祭は教会暦の「移動祝日」で、キリスト受難の聖金曜日から3日目の日曜日を意味し、325年のニケーア宗教会議において春分後の最初の満月のあとの日曜日(イースター・サンデー/3月23日から4月25日)と定められている。

 毎年日付は変わるが、この前後を復活祭の聖節と呼び、復活祭に先立つ40日を四旬節、その最後の1週間を聖週間と呼ぶ。

 この間、教会ではキリストの受難を記念する典礼が行われ、信者は告悔・聖体拝領が義務とされる。欧米では赤・黄・青など5色に彩色した卵(イースター・エッグ)を飾って食べ、イースターカードを贈り合う習慣がある。


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今日の面白雑学(4月8日)

花祭

 仏教では釈迦の誕生(約2500年前)を祝い、4月8日に花祭が行われる。関西では5月8日に行うところが多い。

 灌仏会(かんぶつえ)・降誕会(ごうたんえ)とも呼ばれる法会は、インドで始まったもので、日本では7~9世紀に農耕行事と結びついて広まった。

 花御堂(はなみどう)を設けて誕生仏を安置、竹の柄杓で甘茶を注ぎかける現在の形は、明治以後に浄土宗が始めたとされ、一般に「花祭」と呼ぶようになったのも明治からである。

 花御堂は母・摩耶夫人が無憂樹の下で右脇より釈迦を産んだといわれる藍毘尼園(らんびにおん)をかたどったもので、誕生仏は釈迦が生まれてすぐに7歩進んで、右手で天、左手で地をさし「天上天下唯我独尊」と唱えた姿を模した。

 甘茶は、釈迦の体に竜王が天から清浄な水を吐き注ぎ、産湯をつかわせたという伝説からきている。

 甘茶で墨をすり「千はやふる卯月8日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書き、戸口に逆様に貼ると虫除けになるともいわれている。


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今日の面白雑学(4月9日)

大仏様のパンチパーマ

 752年の4月9日、開眼された東大寺の大仏の頭髪は、小さなお団子が並んだようにも、今でいうパンチパーマのようにも見える。

 あの髪型は「螺髪(らほつ)」と呼ばれるが、なぜそうなったのかは謎である。仏像は、お釈迦様の姿を信者たちが石に彫刻したのが始まりで、ガンダーラ(現在のパキスタン北部)などで造られた初期の仏像は、ゆるやかなウエーブの頭髪をアップにしたり、巻き貝のような髪をしていた。

 それが3世紀後半になると螺髪になるのだが、おそらくインドでは、偉大な人物は普通の人間とは異なった姿をしていると考えられていたために、その特色の一つとして考案されたのではないかといわれている。


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今日の面白雑学(4月10日)

プリンセス・ツムギの誕生

 1959年の4月10日、後に平成の天皇陛下となる皇太子殿下と、民間から初の皇太子妃となった正田美智子さんの結婚の儀が行われた。

 前年 11月27日の婚約発表の日から巻き起こった「ミッチーブーム」は、クライマックスに達した。

 ミッチーブームは、当時、戦後もっとも華やかで明るい話題をふりまき、若い女性は美智子さんのファッションを真似、出身地の群馬県館林市には各地からの観光バスが連日押し寄せたのである。

 正田家や通学された小学校の前ではバスガイドが説明したり、銘仙とツムギの産地であることから、「プリンセス・ツムギ」や「ミッチー・ツムギ」が売り出されたという。


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今日の面白雑学(4月11日)

花の命は短くて

 4月中旬ともなると関東地方では桜花も散り、葉桜となるころである。関東地方では、一、二輪開花してから散り始めるまでは、平均して8日くらいだそうである。

 その年の気候によっても違い、開花から暖かい日が続けば3日で満開になることもあるが、「花冷え」が続くと満開まで20日もかかることもあるという。

 いずれにしろ、ぱっと咲いてぱっと散るいさぎよい桜のイメージは、実は江戸後期以降に定着した。

 江戸・染井村の植木職人が数種の桜を交配して「ソメイヨシノ」を誕生させたが、この桜は葉が成長しないうちに花が咲くので、満開のさまは見事だが花が散りやすい。しかしその散り際のいさぎよさが受けて、日本全国に広がったのだという。


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今日の面白雑学(4月12日)

地球は青かった

 1950年代からロシア(旧ソ連)とアメリカは、競って宇宙開発を行ってきたが、アメリカがアポロ11号で有人月面着陸に成功するまでは、宇宙開発競争はロシアが1歩リードしていた。

 人工衛星の打ち上げでも、1957年のソ連のスプートニク1号が世界最初で、アメリカは翌1958年のエクスプローラ1号で成功している。

 次なる目標は有人宇宙飛行だったが、ロシアは1960~1961年に犬などを乗せた衛星船の打ち上げに成功する。1961年4月12日には、人類初の宇宙飛行士ガガーリンを乗せたボストーク1号の打ち上げについに成功した。

 ボストーク1号は地球を1周し、ガガーリンは無事帰還しているが、宇宙から地球を見て語った「地球は青かった」はあまりにも有名だ。その後、ロシアは宇宙遊泳(1965年)でも、無人の月面軟着陸(1966年)でも「世界初」の栄光をアメリカから奪っている。


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今日の面白雑学(4月13日)

間宮林蔵は隠密だった

 1775年(80年説もあり)に常陸の農家に生まれた間宮林蔵は、その数理の才によって幕政の蝦夷地御用掛となり、伊能忠敬に測量術を学び、東蝦夷や択捉島を測量したことで知られる。

 ロシアの南下によって北辺日本が騒がしくなってきた1808年4月13日、幕命により松田伝十郎とともに樺太調査に出発し、樺太が離島であることを確認した。翌年には海峡を渡ってシベリアに入り、黒竜江下流地帯を調査、デレンに至った。

 晩年は幕府の隠密として働き、シーボルト事件(オランダ商館医シーボルトが1828年に帰国する際、積荷から伊能の『大日本沿海輿地全図』など禁制品が発見されスパイの嫌疑をかけられた)の密告者ともされる。

 しかし、皮肉なことにシーボルトは1832年に樺太とアジア大陸との間を「間宮海峡」という名で世界に紹介したため、世界地図に間宮の名が残ることとなったのである。


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今日の面白雑学(4月14日)

タイタニック号の奇妙な偶然

 1912年の4月14日夜、豪華客船タイタニック号は氷山に衝突し、1513人の乗客とともに海中に沈んだ。

 その 14年前、「タイタン号」という船が、やはり同じように処女航海で氷山に追突して沈没している。しかし後者は「フューティリティ(徒労)」という名の小説での出来事である。

 つまりこの小説はタイタニック号の悲劇を予言する小説となってしまったのだ。類似は船名だけでなく、どちらも同じような速力と大きさ、「不沈船」であることも、乗客人数も、沈んだ場所も同じだったのである。

 奇妙な偶然はそれだけではなかった。1892年にW・T・ステッドも同じような内容の短編小説を出版している。しかもステッド自身が、タイタニック号と運命をともにした1513人の乗客の中の一人だったのである。


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今日の面白雑学(4月15日)

モナ・リザは高コレステロール

 世界の大天才、レオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリア盛期ルネサンス時代の1452年4月15日に生まれた。

 ダ・ヴィンチの画家としての代表作といえば、ルーブル美術館の『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』(1503~6年の作)を思い浮かべる人は多いだろう。

 しかし、この絵はレオナルドが描いたという以外にわかっていることはわずかしかなく、古来、多くの人がさまざまな解釈を試みてきた。

 モデルはフィレンツェの市民フランチェスコ・ディ・ジョコンドの妻というのが定説だが、実は女装した美男子だとする説、レオナルド自身を描いたものだとする説まである。

 また、モナ・リザは喘息もちだったとか、妊娠していたとか、果てはコレステロール値が高かったと指摘する医者もいる。モナ・リザの上まぶたの中央に小さなはれものができているのがその証拠だとか。


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今日の面白雑学(4月16日)

かすみか雲か

 万葉集にも「霞たなびき春さりにけり(春さりにけりとは、春になるという意)」という歌があるとおり、かすみは春の代表的な風情である。

 かすみは、辞書には「ごく細かな水滴が空中に漂うために、空がぼんやりと見えるさま」と書かれているが、気象のうえではこれといった定義がない言葉なのだそうである。

 気象上は見通しが1キロ未満だと「霧」、1キロ以上だと「もや」と定義されている。春、日本の南海上に前線があって暖かい空気が流れ込んでいたり、移動性高気圧によって朝夕、地上に冷たい空気が澱み、上空の方が気温が高くなっているときに、かすみがかかりやすいといわれている。


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今日の面白雑学(4月17日)

徳川家康の死因

 1616年4月17日、徳川幕府初代将軍・徳川家康が死去した。死因は鯛の天婦羅の食べ過ぎだといわれている。けれども、この説はあまり信用できないようだ。

 確かに家康は死ぬ3カ月前に、家光の元服式に備えて身体を鍛えるため鷹狩りに出かけ、その夜に鯛の天婦羅を初めて食べている。

 家康を訪ねてきていた京都の茶屋四郎八郎が、当地では魚を揚げる料理がはやっているといったため、大鯛2尾、甘鯛3尾を取り寄せて食べたというのである。

 そして、家康はその毒にあたって床についたというけれども、死んだのは食べてから3カ月も後のことなので、鯛の天婦羅を直接の死因とするには無理がある。家康は胃癌だったとする説があるが、この説のほうがまだ信用できるのかもしれない。


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今日の面白雑学(4月18日)

引っ越し93回の葛飾北斎

 1849年4月18日、浮世絵師・葛飾北斎が浅草の遍照院境内で90歳で没した。

 彼は1760年に幕府用達鏡師の子として江戸本所に生まれ、1778年に勝川春章へ入門し、狩野派・土佐派・住吉派から、明や清、オランダの風景銅版画にいたる和漢洋の各種画法に関心を寄せ、奇抜な発想や大胆な構図で風景画・花鳥画のジャンルに清新な画境を開拓した天才である。

 浮世絵が頽廃していった化政期以降に、新風を吹き込んだ。死ぬまで描き続けた『北斎漫画』や、64歳から72歳にかけて発表した『富嶽三十六景』など名作は数多く、フランスの印象派やゴッホにも多大な影響を与えている。

 しかし、その一生は貧乏で、麻裏草履をはき、柿色の袖無しを着て裏長屋を転居すること93回に及ぶ。春朗、宗理、可候、北斎、画狂人など30以上の号を用いるといった、その奇行を示す逸話も数多い。


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今日の面白雑学(4月19日)

梅毒で亡くなった歴史上の人物

 1910年4月19日、ドイツの国立血清研究所所長エールリッヒが初の抗梅毒剤の開発に成功した。梅毒はもともと西インド諸島の風土病だったが、大航海時代の西洋人によって世界中に広められた病気である。

 1493年にコロンブス一行がエスパニョーラ島(ハイティ島)からヨーロッパへ持ち帰り、16世紀にはバスコ・ダ・ガマによってインド、中国、日本にまで伝わっている。

 梅毒の治療としては古くから水銀剤やヨード剤を用いた方法があったが、それらは完全ではなく、20世紀になってペニシリンが発見されるまで梅毒は不治の病とされていた。

 そのため、シャルル8世、ヘンリー8世、エラスムス、ハイネ、シューマン、ボードレール、ニーチェ、モーパッサン、ベートーヴェン、加藤清正、浅野長政、結城秀康、前田利長、浅野幸長らが梅毒やその影響によって死亡したとされる。


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今日の面白雑学(4月20日)

菅原道真の怨霊が都を震撼

 現代でも学問の神様として崇められている菅原道真は、845年、学者の家系に生まれた。

 道真は、文章(もんじょう)博士となった後、讃岐守、蔵人頭となる。宇多天皇、醍醐天皇に重用された道真は、899年に藤原時平が左大臣になった時には右大臣に任ぜられ、学者として異例の出世を遂げた。

 しかし、道真を邪魔に思った時平は、道真が天皇を廃し、自身の女婿斉世親王(醍醐天皇の弟)を立てようとしていると天皇に上奏する。

 道真は太宰権帥(だざいのごんのそつ/九州にある大宰府の長官)に左遷され、903年にその地で没した。

 都の人々は不遇な晩年を送った道真の怨霊の祟りを恐れたが、909年には時平が病死する。また、923年3月には皇太子保明親王が亡くなるに至り、道真の魂を鎮めるため、同年4月20日、朝廷は道真を右大臣に復し、正二位を贈ったのだった。


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今日の面白雑学(4月21日)

一枚の紙きれから誕生した文豪

 日本でも少年少女文学として親しまれている『トム・ソーヤの冒険』『ハックルベリ・フィン』などの作者マーク・トウェインは、1910年4月21日に亡くなった。

 1835年にフロリダの貧しい開拓民の子として生まれたサミュエル・クレメンス(トウェイン)は、少年期をミシシッピ河畔で送った。

 そして、印刷屋で植字工として働いていた14歳のころ、路上で風に吹かれている1枚の紙きれを拾ったことが彼の運命を変え、アメリカの文豪を誕生させるきっかけとなった。

 その紙きれはジャンヌ・ダルクの生涯を綴った本の1ページで、ダルクが捕らえられルーアンの城に幽閉されたところが書かれていたという。

 その描写に感動したもののダルクがどんな人物なのか全く知らなかった彼は、あらゆる本を探して読みあさり、それをきっかけに歴史に対する興味を持ち、文学に目覚めて、やがて作家への道を志すようになったのだという。


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今日の面白雑学(4月22日)

レーニンの獄中からの秘密通信

 1870年4月22日、レーニンことウラジミール・イチイチ・ウリヤノフはボルガ河畔シンビルスク(彼の名にちなみ一時はウリヤノフスクと改称)に生まれた。

 のちにソ連邦の建設者となる彼は、17歳でマルクス主義革命に参加する。1895年、ペテルブルグに労働者解放闘争同盟を結成したが、1897年に逮捕されシベリアに追放されるが、1900年にスイスへ亡命している。

 この流刑中にマルクス主義的教育家・クルプスカヤと結婚しているが、彼は獄中にあって外部にいる同志とひそかに連絡をとるために、「ミルクのインク」を使ったという。

 獄中に差し入れられた本に、牛乳をインクがわりにして文字を書き入れ、あとで同志はあぶりだしでその通信文を読み取ったというのだ。ちなみに彼は、官憲から逃れるため、90以上もの別名をもっていた。


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今日の面白雑学(4月23日)

サン・ジョルディの日のおこり

 遥か昔、スペイン北東部・カタルーニャ地方のある村は、家畜を食べ尽くす恐ろしい悪獣に悩まされていた。

 村人たちは悪獣の怒りを治めるため、毎日ひとりずつ籖引きに当たった者を悪獣への生け贄として供えることにしたが、ある日、王家の美しい姫が籖に当たってしまった。

 そこへさっそうと現れたのが、白馬にまたがり光り輝く黄金の剣をふりかざした若き騎士ジョルディである。彼は勇猛果敢に戦い、悪獣を退治した。流れた悪獣の血から薔薇の園が生まれ、ジョルディはその薔薇の一輪を姫へ捧げた。

 その後、村人はジョルディの命日である4月23日を「サン・ジョルディの日」として祝い、女性に花を贈る習慣が広まった。のちにこの習慣に、『ドン・キホーテ』で知られるスペインの文豪・セルバンテスの命日4月23日に本を贈るという習慣が結びつき、現在のかたちになっていった。


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今日の面白雑学(4月24日)

蜃気楼って何だろう?

 春うららかな4月ともなると、日本の海岸で「蜃気楼」が、しばしば見られるようになる。蜃気楼の発生地としては、富山湾魚津などが有名である。

 蜃気楼とは、気温が場所によって異なる時、空気の密度に違いが生じ、光線が屈折して幻影が見える現象のことだ。

 富山湾魚津の蜃気楼が有名だが、北アルプスの冷たい雪解け水が海水の温度を急激に下げるために、空気密度の違いが生じて、海上に地上の景色や逆立ちした船の幻影が見えたりする。

 エジプトに遠征したナポレオン軍も、蜃気楼に翻弄されたという逸話がある。この「蜃気楼」という言葉は、古代中国で生まれた。「蜃という動物が気を吐いて楼台をつくる」と考えられていたのだ。

 この「蜃」という動物は、古代の百科事典ともいうべき『本朝綱目』には「蜃は蛟(みずち)という蛇の一種だという。竜のような角と紅いヒゲがあり腰から下には鱗が生えている」と書かれている。一方、日本では蜃は大きな蛤と考えられていた。


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今日の面白雑学(4月25日)

サンドイッチ諸島の名付け親

 1868年4月25日に第1号移民120余名が横浜港を出発して以来、日本とは何かと縁が深いのがハワイである。

 英国のキャプテン・クックという人物は、1768~1771年に太平洋航海を行い、オーストラリア大陸の英国領有を勝手に宣言したことでも知られる。

 彼は、1776年の第3回航海で初めてハワイ諸島を発見し、時のイギリス海軍総司令官だった、サンドイッチパンの由来として知られるサンドイッチ伯爵の名を取ってサンドイッチ諸島と命名した。

 彼は、北極圏を周った帰途に再びハワイ島に立ち寄り原住民に殺されている。当時、ハワイ諸島は4王国に分かれていたが、1810年にカメハメハ1世が全島を統一してハワイ王国が成立した。

 1894年に共和国となったが、1900年にアメリカに領有され、1959年にハワイ州となった。


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今日の面白雑学(4月26日)

フランス国歌の誕生

 1792年4月26日、のちにフランス国歌となる「ラ・マルセイエーズ」が、工兵大尉ロジェ・ド・リールによってほんの数時間で作詞・作曲された。

 フランスでブルジョア革命が起こっていたさなかの同年4月20日、フランスはオーストリアに宣戦布告する。

 その報は25日にストラスブール市に伝えられ、市長は軍人たちを自宅に招いて送別の宴を開いていた。

 同席していたロジェ大尉に音楽の才能があることを知っていた市長は、兵士たちを激励するための歌を作ってくれるよう依頼したのである。

 ロジェはその夜のうちに仕上げ、翌朝には市長の家で発表した。

 最初は「ライン軍軍歌」と呼ばれていたとおり、人殺しをあおる軍歌だったが、やがてマルセイユにも広まって、兵士たちがパリに上京する際、この歌をうたって行進したことから「ラ・マルセイエーズ」と名づけられたという。


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今日の面白雑学(4月27日)

朝の海晴れ 終日いい天気?

 その土地によって、天気に関する民衆の知恵から生まれた諺はいろいろある。

 たとえば、東京近辺では「春海秋山」といい、朝方に春は海のほうが晴れているならばその日は上天気で、秋には山のほうが晴れていればいい日和になるという具合である。

 一方、群馬県では風土・気象条件も変わるために「春山秋里」となり、山口県では端的に方向を入れて「春南秋北」といい、若狭湾付近では「冬の高凪しけのもと」と伝わる。

 全国各地で「春の夕焼水門を下げ」といわれるが、これは晴天続きの兆しだから田に水をやれという意味である。

 ユーモラスなものでは、関東・東海の「夫婦喧嘩と北風は夜凪する」というのがある。これは夫婦喧嘩と北風は日中いくら激しくても、なぜか夜になると自然におさまってしまうものだという意味らし。本当ならいいのだが。


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今日の面白雑学(4月28日)

魂を取られるか、切腹するか

 1809年4月28日、薩摩藩主・島津斉彬が生まれた。斉彬は積極的な開明思想の持主で近代化に寄与した人物として知られるが、日本で最初の写真のモデルになった人物ともいわれている。

 銀板写真(写真機)は、1839年にフランス人画家のルイ・ダゲールが開発し、その2年後には早くも日本に上陸した。

 その写真機を日本で最初に手にした上野俊之丞は、写真機を島津斉彬に献じ、さっそく斉彬を撮影したというのだ。

 さて、写真機を手に入れた斉彬は、さらにふたりの家臣を撮ることにした。

 当時は写真を撮られると魂が吸い取られると信じられていたので、ふたりは尻込みしたが、殿の命令を断るわけにもいかず、ついに切腹してしまったという。

 ちなみに俊之丞は「上野撮影局」(写真館)の開業者で、坂本竜馬や高杉晋作ら幕末の志士たちの写真を残した人物である。


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今日の面白雑学(4月29日)

昭和天皇は処刑されそうだった

 天皇といえば、その初代は、神武天皇であり、日本神話に連なる伝説上の人物ですが、『日本書紀』や『古事記』によれば、天照大御神の五世孫で、畝傍橿原宮(現在の奈良県)に都して日本を建国したとされます。

 彼の先祖にあたる天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する女神とされ、高天原(たかまがはら)を統べる主宰神であり、皇祖神にして日本国民の総氏神であるとされる。

 天照大神は、太陽神と巫女の性格を併せ持つ存在であり、その子孫は、長い間日本国を統治する存在でした。

 ところが、先の太平洋戦争に敗戦した時点で、敗戦国戦犯として、処刑される可能性もあったのです。

 第二次世界大戦にかかわる搭乗秀規などの責任者は、戦争犯罪人として逮捕され「A級戦犯」として処刑されました。

 当時のアメリカは、昭和天皇も戦犯として裁く主張があったのですが、昭和天皇のある行動が当時の連合国軍最高司令官であったマッカーサー元帥の心を動かしたのでした。

 通訳を伴った昭和天皇は、マッカーサー元帥を訪問したさい、マッカーサーは、これはきっと命乞いに来たものだと思っていました。

 しかし、昭和天皇は命乞いをするどころか、戦争の全責任は自分自身にだけあり、戦犯は自分ひとりだけである。自分はどんな処罰でも受け入れる覚悟がある、と申し出たのでした。

 昭和天皇は、罪もなくこの戦争に駆り出され、住む家も、着るものも、食べものもない国民に対して配慮して欲しいと訴えたのでした。

 歴史上、自分の命と引き換えに自国民を救おうとする国王など、存在した例がないことを知るマッカーサーは、この発言に驚き感動を覚えたと述べ「私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」との言葉を残しています。

 アメリカ政府や世論は昭和天皇の責任追及を要請しましたが、マッカーサーはこれを却下したのでした。これにより、昭和天皇は戦犯として処刑されることはなかったのです。


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今日の面白雑学(4月30日)

女の一念、皮膚をも残す

 4月30日は図書館記念日である。図書館にはいろいろな珍しい本が保存されているが、英国エクスターのアルバート記念展示館にあるミルトンの詩集は、カドモアという1830年に処刑された人物の皮膚がカバーに使われている。

 その皮は白っぽい色をしていて、どことなく豚皮に似ているそうだ。

 また、天文学者で詩人のカミーユ・フラマリオン(1842~1925年)の詩集も、その1冊が女性の皮膚で装幀されていると伝えられる。

 その皮膚の主は、カミーユに恋をしたがかなわず、結婚することができなかった。

 そこで彼女は、自分が死んだら自分の皮膚でカミーユの詩集を装幀し、彼に送って欲しいと主治医に頼んだという。死んだのちも愛する男のそばにいたいと望んだ女性の心を、カミーユはどのように受け取ったのだろうか。



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