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〔今日の雑学:5月〕


 一年中のどんな日にも、長い歴史の中で大事件が起こったり、歴史に名を残す偉大な人物が生まれたり、偉大な発見や発明がなされたりしています。

 あるいは、後世の人たちが永遠に楽しめるような魅惑的な音楽や芸術作品が登場したりするものです。

 歴史に多大な影響を与えるような出来事があれば、それに伴い様々な逸話が誕生したりもします。このコーナーでは、その日に関連するそんな逸話のようなものを掲載しています。それなりに示唆するものがありますから、楽しんで下されば嬉しいです。



 毎月のカレンダーに載っているような大事な記念日などは、だれでも大体の見当がつくものです。

 例えば、4月末から始まる大型連休があります。5月3日なら「憲法記念日」とか5月4日の「みどりの日」、5月5日なら「子供の日」とかは誰でも知っています。でも、5月1日~5月7日に「憲法週間」があるなんてことは、ちょっと想像できないですね。

 このような国民の祝日などに限らず、たとえば、あなたと同じ誕生日にはどんな有名人がいて、どんな逸話を残してくれたかなども興味が湧きますね。そこで、5月の毎日のことに関連する逸話などを調べてみました。


1月2月3月4月5月6月
7月8月9月10月11月12月
 
1日 ・ふたつのメーデー
2日 ・郵便貯金の時効って
3日 ・マキャヴェリズムの由来
4日 ・ラムネのビンの作り方は?
5日 ・鯉のぼりの由来
6日 ・マンハッタン島は$24だった
7日 ・樺太の歴史
8日 ・赤十字運動発足の由来
9日 ・「あいすくりん」1人前8000円
10日 ・日本人初の鉄道経験者は?
 
11日 ・金物をはずした罰で初の入墨刑
12日 ・クリミア戦争の遺産
13日 ・田山花袋と森鴎外の意外な関係
14日 ・イスラエル共和国の建国
15日 ・靴下が強くなったわけは?
16日 ・奥の細道の旅費はどこから
17日 ・スパイゾルゲ事件の真相
18日 ・ゲリラの発生とナポレオン
19日 ・銚子と徳利
20日 ・ローマ字の表記法
 
21日 ・翼よ!あれが巴里の灯だ
22日 ・シャーロック・ホームズの誕生
23日 ・日本初のキス・シーン映画
24日 ・日本初のゴルフ場がオープン
25日 ・銀の国アルゼンチンに銀がない
26日 ・五月晴れは五月にあらず
27日 ・でっかい夢をかなえた金門橋
28日 ・出島の歴史
29日 ・そこに山があるからだ
30日 ・ジャンヌ・ダルクの祖国愛
31日 ・不運だった初舞台

おもしろ雑学

今月にはこんな面白いお話があるよ!

今日の面白雑学(5月1日)

ふたつのメーデー

 イギリスでは「メーデー」というと、労働者の祭典の日であるとともに、「春の花祭」の日でもある。

 日の出前に若者たちがいろいろな花を手折って冠を作り、村一番の美しい少女にかぶらせて1日中踊ったり歌ったりして遊ぶ。

 これはゴート民族の風習ともローマ花祭の移植ともいわれる古くからの行事だそうだ。

 さて、万国の労働者の祭典であるメーデーだが、日本では1905年に東京・丸の内の平民社に堺利彦ら約50人が集まった「メーデー茶会」が、最初の集会だったといわれる。

 1920年の5月2日には上野公園に15団体約1万人が集まって行進し、以後は年中行事となった。

 1935年まで続いたが、戦時中は禁止され、戦後の1946年になって復活している。

 1952年のサンフランシスコ講和条約発効直後には、政府が皇居前広場の使用を禁止したため、デモ隊と警官隊が皇居前で衝突する事件があった。死者2人と負傷者多数を出したが、この出来事は、後に「メーデー事件」と呼ばれるようになった。


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今日の面白雑学(5月2日)

郵便貯金の時効って

 郵便貯金は、民間金融機関が未発達で支店もほとんどない時代、どんな片田舎であっても郵便局を利用して預金できるようにと設けられた制度である。

 庶民の便利さだけでなく、政府にとっても大衆零細預金を吸収して財政投融資などの源資にできるという利点があった。

 郵便制度を作った前島密が、1861年にイギリスで初めて採用された郵便貯金制度の成果をみて、1875年に取り入れたのだ。近年は、民営化を主張する意見が強まっている。

 ところで、郵便貯金の時効は10年と決まっていることはご存知だろうか。つまり、最後の出し入れをしてから10年間ほったらかしにしておくと、貯金は国庫に吸収されてしまうことになるのだ。

 その前には、郵政省から預け換えの通知が来るので、うっかり忘れていても問題はないが、住所が変わった時などに通知が届かないこともあるので注意しなければならない。


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今日の面白雑学(5月3日)

マキャヴェリズムの由来

 近代政治学の祖とされる、イタリア・ルネッサンス時代の政治思想家マキャヴェリは、1469年5月3日、フィレンツェの小貴族の家庭に生まれた。

 当時のイタリアは政情不安だったが、彼はイタリアが在りし日の栄光を取り戻すことを念願し、フィレンツェ共和政府の外交・軍事の要職で活躍したことで知られる。

 メディチ家の復活を見届けたのち、文筆生活に入った。

 宗教や道徳からの政治の解放を唱えた彼は、主著『君主論』で「君主は獅子のごとくたけだけしく、狐のごとく狡猾でなければならぬ」と説いた。

 このことから、目的のためには手段を選ばず、権謀術数をたくましくする政治上の行動様式や主義が「マキャヴェリズム」と呼ばれるようになった。

 しかし、マキャヴェリ自身の真の理念は、国家統一を通じて人民の福祉を図るというものであったという。


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今日の面白雑学(5月4日)

ラムネのビンの作り方は?

 1950年代まで、清涼飲料水の王者といえば「ラムネ」だった。昔の子供には、忘れがたき思い出がある。

 ラムネとう言葉は「レモネード」がなまったもので、 1868年(明治元年)に初めて中国人の蓮昌泰という人が東京・築地で作っている。

 日本人では1872年5月4日に、千葉勝五郎という人物が最初にラムネの製造販売許可を得る。彼は東京・南伝馬町で製造を開始し、当初は「沸騰水」あるいは「ジンジンビヤ」(ジンとはジンジャーのこと)などと呼ばれていた。

 ところで、ラムネといえば、あの独特な容器に特徴がある。あのビー玉はどうやって入れたのかというと、まず、ビー玉がちょうど入るくらいに口を広げたビンを作る。そこにビー玉を入れ、熱を加えて口を細くし、ラムネを注ぐのである。

 そうすると炭酸の力でビー玉が押し上げられて、口にぴったりとくっつき、センのかわりになるというわけである。


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今日の面白雑学(5月5日)

鯉のぼりの由来

 端午の節句は、中国から伝わった五節句の一つである。

 端午の節句に上げる鯉のぼりも、中国の故事からきたもので、昔、楚の国で、ざん言のために淵に身を投げた屈原を慰めるために、紙の鯉を作って奉ったのが始まりだという。

 日本では室町時代から、武士の家に戦ののぼりに似た吹き流しを立てるようになり、江戸時代になるとそれが町家にも広がって、紙で作った鯉を竿頭に上げるようになった。

 鯉は「竜門を上がれば化して竜になる」いう伝説から縁起のいい魚とされ、晴れた空を悠々と泳ぐ鯉のぼりに、男の子の健やかな成長と立身出世を願う気持ちを託したものである。


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今日の面白雑学(5月6日)

マンハッタン島は$24だった

 アメリカの金融・政治・文化の中心であるマンハッタン島は、もともとはカナルジー・インディアンの居住地であった。

 1524年にフィレンツェの探検家ジョヴァンニ・ヴェルラザノが初めて足を踏み入れた時、彼らに酒を与えたためにマンハッタン(泥酔の地)と呼ばれるようになったという。

 独立前のアメリカ大陸には、イギリスをはじめヨーロッパ諸国の植民地がいくつかあったが、オランダも、のちに戦争でイギリスに奪われることとなる、現在のニュー・ヨークにニュー・ネーデルランドという植民地を建設しており、その経営にはオランダ西インド会社があたっていた。

 そして、 1626年5月6日、オランダ植民地総督のピーター・ミニュートは、インディアンの酋長からわずか60ギルダー(約24ドル相当)のナイフや装身具と交換してマンハッタン島を手に入れたのだった。


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今日の面白雑学(5月7日)

樺太の歴史

 現在はロシア領となっている樺太(サハリン)には、各地に新石器時代の遺跡があり、古来はオロッコ族、ニブヒギリヤーク族、アイヌ族が居住したとされる。

 しかし、間宮林蔵が島であることを確認するまでは北海道の一部と誤認されていたほどで、近代まではどこの国の領土でもなかった。

 江戸時代は松前藩が経営に当たり、19世紀からは幕府直轄地、幕末に結ばれた日露和親条約では両国の雑居とした。

 明治政府は樺太開拓使を設けたが、日露間で紛争が頻発する。

 そこで、1875年5月7日に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領とするかわりに、千島全島が日本領となった。

 その際、樺太から強制移住させられた多数のアイヌの人々が死んだという。

 日露戦争後は、北緯50度以南が日本領となり、のちに日本は北樺太における各種の利権も獲得したが、第2次大戦後はソ連領となった。


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今日の面白雑学(5月8日)

赤十字運動発足の由来

 赤十字運動の提唱者であるアンリ・デュナンは、1828年5月8日に誕生した。

 デュナンは、1859年のイタリア統一戦争による傷病者の惨状を知り、自らの著書「ソルフェリーノの思い出」で、戦時における中立的救護組織の必要性を訴えた。

 これがきっかけとなって、1863年には人道主義的民間団体として赤十字が発足することとなった。

 1864年には、いわゆるジュネーブ条約と呼ばれる、赤十字条約が採択された。加盟国には、政府公認の1国1社の篤志救護団体(赤十字社)が設立されることとなり、標章にはスイス国旗の配色を逆転させた「白地に赤十字」が用いられることとなった。

 赤十字の設立当初は、戦時における傷病者の救護が任務であったが、第一次世界大戦後には、平時における災害や疾病の救護・予防、病院・輸血センター・看護短期大学も運営されるようになる。

 この運動の提唱者、デュナンは1901年の第1回ノーベル平和賞を受賞している。また、赤十字国際委員会、赤十字社連盟もノーベル平和賞を受賞している。


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今日の面白雑学(5月9日)

「あいすくりん」1人前8000円

 アイスクリームは、1550年ころイタリアで発明され、フランスのルイ王家に伝わったという。

 日本では、旧暦の 1869年5月9日、横浜の馬車道通りで氷水屋の町田房蔵が、日本で初めて販売したといわれる。

 町田はアイスクリームを「あいすくりん」という名前で、1 人前で金2分(現在の8000円相当)で販売したが、高値と馴染みの無さから、わずかに外国人が買うだけで、日本人は遠巻きに見ていただけらしい。

 ところが、翌年の伊勢神宮の大祭で販売したところ、大評判となり、1884年には風月堂が新聞広告を出して販売している。

 アイスクリームの生産は第1次大戦ころに工業化されたが、誰もが安く口にできるようになったのは第2次大戦後のことである。

 ちなみに1860年に咸臨丸でアメリカにわたった勝海舟や福沢諭吉が、日本人として初めてアイスクリームを食べたという記録がある。


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今日の面白雑学(5月10日)

日本人初の鉄道経験者は?

 1969年の5月10日は、国鉄が1等・2等の制度を廃止し、1等車をグリーン車とした日である。

 ところで、日本人で最初に鉄道に乗ったのは、おそらくジョン万次郎(本名:中浜万次郎)だったのではないかといわれている。

 漁師だった彼は1841年に遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、10年間アメリカに滞在したが、その際に鉄道に乗っているのだ。

 その様子を彼は『海外鉄道見聞記』に「レイロオ(レイル・ロード=鉄道)という火車に乗ったと記している。

 それは船の形をしており、大きな釜に湯をわかし、湯の勢いで1日300里ほど走る。

 内部から車輪をのぞいてみたところ、それは飛んでいる鳥のようで、よく見えなかった」と述べている。

 彼は蒸気で走る列車を見て、腰を抜かさんばかりに驚いたにちがいない。ちなみに彼は日本人で最初にネクタイを着用した男でもある。


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今日の面白雑学(5月11日)

金物をはずした罰で初の入墨刑

 8代将軍・吉宗の代の1720年5月11日、江戸長崎町の半兵衛という者が、江戸橋の橋脚に巻かれていた金物を外した罪により、北町奉行がかりで入墨のうえ追放されているが、これが正式な入墨刑の第1号といわれる。

 日本における入墨の歴史は古く、3世紀ごろの日本について書かれた『魏志倭人伝』に入墨のことが記されている。

 さらにそれ以前の縄文時代からも入墨の習慣はあったらしい。また原日本人とも考えられるアイヌ民族にも入墨の習慣があり、明治時代まで残っていた。

 入墨の元々の目的は装飾・宗教的儀礼などが考えられるが、江戸時代になってからは刑罰として犯罪者に入墨するようになった。

 当時の刑罰としての入墨は地方によって異なり、江戸では幅3分(約1センチ)の2本筋を腕にぐるりと入れ、大阪では幅5分の2本筋を入れたそうだ。


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今日の面白雑学(5月12日)

クリミア戦争の遺産

 1820年5月12日、英国人フロレンス・ナイチンゲールはイタリアのフィレンツェで誕生した。

 富裕な家庭で育ち、ドイツで看護婦教育を受けた彼女は、1853年にロンドン淑女病院看護婦長となり、翌年のクリミア戦争では野戦病院で活躍した。

 兵士の死亡率を半減させて「クリミアの天使」「光明婦人」と呼ばれた。

 ナイチンゲールの活躍とともに、クリミア戦争では現代まで残るものが生まれている。

 一つはラグラン袖という名称で、兵士がロシアの寒さから身を守るために重ね着をした衣服から生まれた名で、カーディガンという名も、この戦争に従軍した将校の名からきているそうだ。


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今日の面白雑学(5月13日)

田山花袋と森鴎外の意外な関係

 『蒲団』『田舎教師』などで自然主義文学の作家として知られる田山花袋は、1930年5月13日に59年の生涯を終えた。

 花袋は小説家として大成する前、博文館という出版社に勤めていたが、日露戦争では従軍記者として余州・南山・遼陽などで戦いに接し、偶然にも陣中で軍医である森鴎外と知り合っている。

 花袋は鴎外をたずねて、文学や戦争の話などをしたという。

 やがて腸チフスにかかった花袋は帰国することになるが、日本に戻ってから鴎外に慰問の歌を送った。

 するとその返しに「君の野糞をのぞみし……」と書いたハガキが届いたとか。

 花袋は従軍中よく野グソをしたのだが、その場所というのが鴎外のいた軍医部の裏の畑。どうやらみっともない姿をいつも鴎外に見られていたらしい。


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今日の面白雑学(5月14日)

イスラエル共和国の建国

 19世紀末から、祖先の地パレスチナにユダヤ人の国を建設しようとするシオニズム運動が起こり、ユダヤ人のパレスチナ流入が盛んになるとともに、アラブ人との対立が起こるようになった。

 第1次大戦中、英国はアラブとユダヤ双方にパレスチナでの建国を約束するという矛盾した政策をとったため、戦後はさらに対立が激化してしまう。

 第2次大戦後の1947年、国連はパレスチナの委任統治廃止と、ユダヤ、アラブ両民族への分割を決定した。

 ユダヤ人は1948年 5月14日に「ユダヤ民族の権利と国連の決定にもとづいて、イスラエルの建国をする」と宣言することとなる。イスラエルは、この日、1948年5月14日に建国されたのである。

 怒ったアラブ各国はイスラエルを攻撃、パレスチナ戦争が始まることになった。

 イスラエルは米英の支持を得てアラブ軍を破り、1949年に国連仲介で休戦したが、多くのアラブ人が土地を奪われ、両者の対立は一層深刻となり、現在に至っている。


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今日の面白雑学(5月15日)

靴下が強くなったわけは?

 「戦後、強くなったのは女性と靴下」とは、かつての流行語だが、これはナイロン製の靴下のことである。

 1920年代になって薄手の絹製の靴下がもてはやされだしたが、あまりにも高価だったので、絹に代わる繊維の研究が始められた。

 アメリカのデュポン社の化学者たちは合成ゴムの研究をしていたが、1937年ころ、研究員のウォーレス・カローザスが、ガラス棒の先についていた真っ白な細い糸が非常によく伸びる性質を持っていることを発見する。

 人類初の実用的な合成繊維「ナイロン」(デュポン社製のポリアミド繊維の商品名)の発明のきっかけになった。

 そして1940年5月15日、いよいよナイロンを使った最初の靴下が発売された。

 最初はデラウェア州ウィルミントンでテスト販売されたが、評判を呼び、遠くニューヨーク、ボルチモア、フィラデルフィアから駆けつけた女性もいたという。


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今日の面白雑学(5月16日)

奥の細道の旅費はどこから

 生涯のほとんどを旅に過ごした江戸時代の俳聖、芭蕉が『奥の細道』の旅にでたのは1689年5月16日(旧暦では 3月27日)のことである。

 江戸・深川から最終地の大垣までの距離は約2500kmもある。要した日数はおよそ5カ月だが、その間の旅費はどうやって工面したのだろうか。

 芭蕉は出発に先立ち、芭蕉庵を売っている。どのくらいで売れたかはわからないが、築6年の比較的新しい草庵だったので、それなりの金が手に入ったと思われる。

 出発の際には当然、餞別も貰ったに違いない。また、芭蕉は旅の途中、何度も句会を開いており、そのたびごとに謝礼を手にしたはずである。

 行く先々での門人や支持者たちからの餞別もあっただろう。それを合わせたら、かなりの額になったはずだし、宿を提供してくれた人もいたので、そんなに貧乏したわけではなさそうだ。


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今日の面白雑学(5月17日)

スパイゾルゲ事件の真相

 報道禁止が解かれた1942年5月17日の各新聞は、リヒアルト・ゾルゲ、尾崎秀実ら5人をスパイとして逮捕したという、いわゆる「スパイゾルゲ事件」を大きく報道した。

 事件は太平洋戦争がまだ日本に有利に展開していたころのことだ。

 ソ連共産党の機密部員だったドイツ人ゾルゲは、駐日ドイツ大使館顧問として1933年に来日し、日本の対ソ開戦の意図を探っていたのだった。

 協力者は、アメリカ共産党員・宮城与徳や満鉄嘱託の尾崎秀実らとされる。特に尾崎は近衛文麿のブレーンのひとりであり、中国・ソ連の知識も深く、対ソ開戦に反対していた人物だったため、衝撃は非常に大きかった。

 ゾルゲは日本の南進とドイツのソ連侵略を事前に察知して本国に通報したが、1941年10月、特高に逮捕される。日本の敗色濃い1944年11月、ゾルゲと尾崎の死刑が執行された。


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今日の面白雑学(5月18日)

ゲリラの発生とナポレオン

 歴史上の人物、ナポレオン1世は、1804年5月18日、皇帝に推されたが、彼は1808年、スペインの制圧に乗りだし、12万の大軍を投入した。

 その暴挙に憤激したマドリード市民は石や棒をもって抗戦したが、たちまち鎮圧され銃殺された。

 ちなみに、ゴヤの「マドリード、1808年5月2日」は、彼が自宅の窓から銃をかまえ、その様子を描いたものである。

 これをきっかけに武器を取って立ち上がったスペイン国民は、山岳地帯などにたてこもり、各地で「ゲリリャ」を繰り返し、フランス軍を悩ませた。

 「ゲリリャ」とはいわゆる「ゲリラ」のことで、スペイン語で「小戦争」を意味する言葉である。

 以来、変則的戦闘行為や不正規武装団体のことをゲリラと呼ぶようになり、20世紀の人民解放戦争では重要な戦術となった。

 ちなみに類義語の「パルチザン」は第2次大戦中のレジスタンス(フランスの国民的な対独抵抗運動)から生まれた言葉である。


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今日の面白雑学(5月19日)

銚子と徳利

 禁酒令といえばアメリカが有名だが、日本でも聖武天皇の時代の737年5月19日に禁酒令が出されたことがある。

 ところで、日本で酒の器と言えば、「銚子」か「徳利」だが、その違いはご存じだろうか。

 今では同じように使われる言葉だが、もともとは正月のお屠蘇や、神前結婚式の三三九度に用いられる、柄や下げ手のついた鍋型の酒器が銚子、瓢箪のような形の酒器が徳利と呼ばれていた。

 銚子は平安時代から使用され、のちにおもに儀式用となった。

 一方、徳利は古代の酒器である瓶子から変化したもので、酒を運ぶ道具として発達したものである。

 酒を燗をして飲むようになった江戸時代に、銚子をじかに火にかけて燗をすると味が悪くなるため、徳利に酒を入れて湯燗するようになり、徳利が一般化した。

 時代が経つにつれて、次第に徳利を銚子と呼ぶようになった。ちなみに徳利の語源は、酒を注ぐ時の音だという説がある、朝鮮語のトックル(酒壷)からきたという説などもある。


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今日の面白雑学(5月20日)

ローマ字の表記法

 明治時代には、日本の国際化のためにフランス語を公用語とすべきだという極論まであったほど、国語についてさまざまな議論がなされた。

 文盲を無くすためには漢字を使うのは止め、すべて仮名もしくはローマ字で表記すべきだという意見はかなり根強かった。

 日本語のローマ字表記法も、明治以来いろいろな方式が提案されてきたが、現在もヘボン(標準)式、日本式、訓令式の3種類がそれぞれ使われている。

 ヘボン式はアメリカ人の医師・宣教師ジェイムズ・カーティス・ヘッバーン(夫人は明治学院の創立者)が、1867年刊行の『和英語林集成』で使った方式である。

 日本式は物理学者・田中館愛橘が『羅馬字用法意見』で主張した方式であり、訓令式とは両者の折衷案として内閣訓令で示された方式だ。ワープロなどの日本語入力システムもたいてい複数の方式に対応している。


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今日の面白雑学(5月21日)

翼よ!あれが巴里の灯だ

 チャールズ・A・リンドバーグといえば、知らない人はいないほどの偉人である。彼は、州下院議員を父に、1902年にデトロイトに生まれた。

 彼は、ウィスコンシン大学中退後、航空学校で教育を受け、郵便飛行士になる。そして、彼は1927年5月20日、ライアン単葉機「スピリット・オブ・セントルイス号」に乗りロング・アイランドを出発する。

  5816kmの距離を33時間39分で飛行し、21日21時52分にパリ郊外のル・ブールジュ空港に着陸した。

 当時、2万5000ドルの賞金がかけられていた、世界初の大西洋無着陸横断単独飛行に成功した瞬間である。

 彼の快挙は『翼よ!あれが巴里の灯だ』で映画化され、著書『スピリット・オブ・セントルイス号』はピュリッツァー賞を受賞した。

 第2次大戦では陸軍省顧問、戦後准将となった。また1932年に彼の長男が誘拐・殺害された事件は、子女誘拐犯に死刑を課する「リンドバーグ法」制定のきっかけになった。


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今日の面白雑学(5月22日)

シャーロック・ホームズの誕生

 今日、5月22日は、推理小説の作者として有名なコナン・ドイルの誕生日である。彼の名を聞くと、すぐに名探偵シャーロック・ホームズの名が思い浮かぶ。

 エジンバラ大学を卒業して眼科の開業医となったドイルだったが、患者はなかなかこなかったらしい。

 暇にまかせて冒険小説などを書いていたが、ポーの探偵デュパンをヒントにして、恩師ジョン・ベル博士をモデルに、「シャーロック・ホームズ」という名前を思いつく。

 アイルランドのシャーロックス・タウンと、詩人で医学者のオリバー・W・ホームズを合わせた名前だという。

 1887年に刊行したシリーズ第1作『緋色の研究』はベストセラーとなり、以来、ドイルは専業作家となった。

 天才ホームズの活躍を凡人型の医師ワトソンが語るシリーズは全部で60篇あるが、最初の原稿は買い取りだったため、ドイルはわずかなお金しか手にできなかったとか。

 のちにナイトの称号まで受けたドイルだが、晩年には心霊術に熱中する変わり者だったという。


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今日の面白雑学(5月23日)

日本初のキス・シーン映画

 1946年5月23日、日本の映画で初めてキス・シーンの登場する『はたちの青春』() 松竹/佐々木康監督)が封切られた。

 キス・シーンといっても、主演の幾野通子と大坂志郎がわずかに唇を重ねるだけだったが、当時は公然と接吻シーンが見られる「接吻映画」として話題になり、映画館は連日大入り満員であったという。

 だが実はそのキス・シーン、GHQの指示によるものだったというから驚きだ。

 当時の映画はGHQの民間情報教育の統制下にあり、映画を通して日本の社会を民主化する役目を課せられていた映画演劇課長デビッド・コンデが、ぜひキス・シーンを入れる ように言ったのだという。

 キス・シーンは民主化の象徴のひとつだったわけだ。佐々木監督はこの映画の前の作品ですでにラブ・シーンを入れる約束になっていたのに登場させなかったため、コンデが怒っていたとか。


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今日の面白雑学(5月24日)

日本初のゴルフ場がオープン

 1903年5月24日、兵庫県の六甲山に、日本初のゴルフ場といわれる「神戸ゴルフ倶楽部」がにオープンした。

 設立の中心になったのは六甲山頂に住んでいたイギリス人アーサー・グルームで、発会式には兵庫県知事の服部一三、イギリス総領事ホールらが招かれた。

 始球式を行った服部知事のドライバーは一間(1.8m)も飛ばなかったという。

 ちなみにゴルフの起原については、スコットランド発祥説、オランダ発祥説などがあるが定かではない。

 1608年に創設されたロイヤル・ブラックヒースが世界最初のゴルフクラブといわれ、その前後にスポーツとしての形態が整えられたものらしい。

 また現在、日本には約2000か所のゴルフ場があるが、世界的に見ても異常なほど多く、森林伐採や大量の農薬散布などによる自然破壊、会員権詐欺などが問題になっている。


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今日の面白雑学(5月25日)

銀の国アルゼンチンに銀がない

 ペロン大統領夫人だったエビータの生涯がマドンナ主演の映画で話題になっているアルゼンチンだ。

 この国名(スペイン語読みではアルヘンティーナ)は銀を意味するが、アルゼンチンで銀は産出しない。ではなぜアルゼンチンと呼ばれるようになったのだろうか。

 アルゼンチンがスペイン人に知られたのは、1516年のソリス、1527年のカボットらによるラ・プラタ川の探検からである。

 カボットが川を探検中、原住民が銀とカボットの所持品とを交換してくれた。そこでカボットはその流域で銀が産出するものと思い込み、その川を「銀の川」(リオ・デ・ラ・プラタ)と名づけ、河口に近い植民地をラ・プラタと呼んだ。

 1810年5月25日、ラ・プラタはスペインからの独立を宣言したが、旧国名を嫌って、新国名には同じ「銀」を意味するラテン語を用いることにしたのだ。それをスペイン語読みにしたのがアルヘンティーナというわけである。


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今日の面白雑学(5月26日)

五月晴れは五月にあらず

 「五月(さつき)晴れ」というと、5月の気持ちよく晴れあがった空をさすと思いがちである。

 でも、ほんとの「五月晴れ」とは、5月は5月でも、旧暦の5月のことで、鬱陶しい梅雨の晴れ間のことをさすのである。

 梅雨の時期が陰暦では5月だったためだが、太陽暦での生活が長くなるにつれ、5月の晴天も「五月晴れ」と呼ぶことが定着してしまっている。

 そのため、辞典によっては新旧両方の意味を載せているものもあるくらいだ。

 五月晴れと同様に「五月雨(さみだれ)」も、梅雨(つゆ)の時期に降る雨のことで、本来は5月に降る雨をさす言葉ではなかった。

 ちなみに「さつき」の「さ」は、「田の神」とか「田植え」の意味で、「みだれ」とは「水垂れ」の意味である。


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今日の面白雑学(5月27日)

でっかい夢をかなえた金門橋

 サンフランシスコ湾の入口である金門海峡に、金門橋ことゴールデン・ゲート・ブリッジが完成したのは1937年5月27日のことである。

 この橋は、全長2830mの吊橋で、塔と塔の間の長さ1280m、ケーブルは5mmのワイヤーが2万7000本ほど束ねられており、その直径は約90cmもある。ワイヤーをすべてつなぎ合わせると、地球を3周した長さになる。

 金門橋は、ニューヨーク市にベラザノナローズ橋ができる1964年までは世界最長の吊橋だったが、それを造りあげた技術者ジョセフ・シュトラウスが大変な小男だったことはあまり知られていない。

 大人になっても身長が150cmしかなく、学生時代にラグビーをやりたいといったところ、友達から笑われ、ボールがわりにパスされたとか。

 その時、彼は「いつかでっかいことをやってお前らをあっといわせてやる」と心に誓ったという。金門橋が完成した時、彼はさぞかし満足感を覚えたことだろう。


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今日の面白雑学(5月28日)

出島の歴史

 江戸幕府の鎖国中、日本とオランダとの貿易が唯一許された場所が「出島」と呼ばれた、長崎港内に扇の形に突き出た 3969坪の人工島である。

 かねてからキリスト教が国内に広まるのを恐れて弾圧してきた幕府は、ポルトガル人を隔離・収容したうえ、貿易を独占する目的で、出島を築かせたのだった。

 築造が始められたのは、幕府の鎖国政策の進む1634年5月28日で、2年後の36年に完成している。

 島原の乱の後の1839年にポルトガル人の来航が禁止されると、今度は平戸にあったオランダ商館(オランダ東インド会社の日本支店)がここに移されることとなった。

 以後、オランダ人は、江戸末期までこの島にだけ在留することを許され、出島は鎖国中に西洋からの物資や文化が入ってくる貴重な場となった。現在は埋め立てられ、市内に編入されている。


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今日の面白雑学(5月29日)

そこに山があるからだ

 ネパール東部、中国国境に接するヒマラヤ山脈中にある標高8848m(端数は諸説あり)の世界最高峰・エベレストとはインド測量局初代長官の名からとった英国名で、ネパール名はサガルマータ、チベット語では「大地の母神」の意味の「チョモランマ」と呼ばれる。

 多くの登山家の命を奪ったこの山は、1953年5月29日、ついにイギリスのハント隊のE・P・ヒラリーとネパール人シェルパのテンジンによって征服された。

 ところで「なぜ山に登るのか」という問いに対して「そこに山があるからだ」と答えたのは、イギリスの登山家ジョーニ・マロリーである。

 彼も3度にわたりエベレストへ挑んだ人物で、1924年の3度目の挑戦ではアービングとともにエベレスト頂上付近で行方不明になっている。名言はその直前にアメリカでの講演した際に語られたものである。


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今日の面白雑学(5月30日)

ジャンヌ・ダルクの祖国愛

 有名なジャンヌ・ダルクは、「ピューセル(乙女)」「オルレアンの少女」とも呼ばれる。

 彼女は英仏百年戦争(1339~1453年)中の1412年、敗色濃厚だったフランスのドンレミ村の農家に生まれた。

 13歳のころ「フランスを救え」という神のお告げを聞き、王位継承権を奪われていたシャルル7世を助けてオルレアンを解放する。シャルル7世をランスの聖堂で戴冠させてフランスを勝利に導いた。

 しかし、王の側近に妬まれ、1430年にコンピエーニュ救出に赴いた際、イギリス軍に売り渡されてしまった。

 そして、翌1431年5月30日午前9時、イギリス軍の手でフランスのヴィユー・マルジェ広場に引き出されて「悪魔につかれた女」として火あぶりの刑に処された。没年19歳であった。

 1456年には名誉が回復され、詩・小説・戯曲の題材となり、今も祖国愛の象徴として親しまれている。


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今日の面白雑学(5月31日)

不運だった初舞台

 1915年の今日、ロンドンのオペラハウスで、三浦環が「蝶々夫人」を上演した。日本人初のプリマドンナとして舞台を踏んだのである。

 三浦環は上野の音楽学校時代に教師だった滝廉太郎に求愛されたというエピソードの持ち主だ。その美貌と声楽の才能はロンドンの人々を魅了したが、公演初日にとんでもないハプニングが起こってしまう。

 ピンカートンの船が長崎に入港するシーンで大砲の音が鳴り響くと、観客が浮足だって逃げ始めたのである。

 効果音だと思って歌い続けた環が気が付いたときは、客席はからっぽ、彼女だけが舞台に立っていたという。

 爆音は本物で、折しも第一次世界大戦の最中、ドイツの飛行船ツェッペリンがロンドン市街を初空襲した爆撃音だったのだ。



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