HOME 今日は何の日館 PC版へ移動現在:スマホ版
 
今日は何の日今日の運勢運勢暦五節句誕生石・誕生花
年間祝祭日年中行事・祭り暦の歴史今日の雑学サイト情報

〔今日の雑学〕

3月

1月2月3月4月5月6月
7月8月9月10月11月12月
 

 一年中のどんな日にも、長い歴史の中で大事件が起こったり、歴史に名を残す偉大な人物が生まれたり、偉大な発見や発明がなされたりしています。

 あるいは、後世の人たちが永遠に楽しめるような魅惑的な音楽や芸術作品が登場したりするものです。

 歴史に多大な影響を与えるような出来事があれば、それに伴い様々な逸話が誕生したりもします。このコーナーでは、その日に関連するそんな逸話のようなものを掲載しています。それなりに示唆するものがありますから、楽しんで下されば嬉しいです。



 毎月のカレンダーに載っているような大事な記念日などは、だれでも大体の見当がつくものです。

 例えば、3月3日が「ひなまつり」とか、3月20日頃には「春分の日」があること、3月14日が「ホワイトデー」とかは誰でも知っています。でも、3月1日~3月7日に「車両火災予防運動」が行われるなんてことは、ちょっと想像できないですね。

 このような国民の祝日などに限らず、たとえば、あなたと同じ誕生日にはどんな有名人がいて、どんな逸話を残してくれたかなども興味が湧きますね。そこで、3月の毎日のことに関連する逸話などを調べてみました。

1日 ・芥川龍之介は捨て子だった
2日 ・中国残留孤児初来日
3日 ・左近の桜と右近の橘
4日 ・前野良沢・杉田玄白腑分け見学
5日 ・日本初のスチュワーデス
6日 ・ゴシップの意味
7日 ・江戸時代の消防隊「火消」
8日 ・国際婦人デー
9日 ・春の雪は牡丹雪
10日 ・応天門の炎上
 
11日 ・羽田空港にジャンボ機が初到着
12日 ・お水取り
13日 ・上杉謙信の死
14日 ・何故バカヤローで解散なのか
15日 ・日光は光り輝いてない?
16日 ・国立公園のはじまり
17日 ・彼岸の入り
18日 ・明治にふれる
19日 ・桜前線は気象用語ではない?
20日 ・東京国立博物館と上野動物園
 
21日 ・「のどか」と「うららか」
22日 ・人力車普及の理由
23日 ・緒方洪庵の適々斎塾
24日 ・梶井基次郎の不遇な死
25日 ・自費出版から生まれた名作
26日 ・「一番風呂」の功罪
27日 ・切腹の本当の理由は謎の千利休
28日 ・「新婦人協会」結成
29日 ・サーロイン・ステーキの語源
30日 ・嫌われものだったエッフェル塔
31日 ・日本初のハイジャック



おもしろ雑学

今日の面白雑学(3月1日)

〔芥川龍之介は捨て子だった〕

 1892年3月1日、東京市京橋区入船町(現・中央区明石町の聖路加病院前)で、芥川龍之介は生まれた。昔の時刻の表し方で辰年辰月辰日辰刻に生まれたため、龍之介と名づけられた彼は、なんと生まれてすぐ近所の教会前に捨てられてしまった。

 といっても、父が後厄の43歳、母が大厄の33歳の時の子だったため、厄払いの風習に従ってあくまで形式的に捨てられただけだから心配はない。

 しかし、彼は結局、生後7カ月で本当に「捨てられ」てしまうことになる。母が発狂したため男親だけでは育てられないということで、母の実家・芥川家で母の兄夫婦に育てられることになったのだ。

 その後、実父は実母の妹との間に男の子をなし、実母は龍之介が10歳の時に死亡する。実父は龍之介を呼び戻そうとしたが、裁判の結果、実父は実母の妹と結婚し、龍之介は芥川家の正式な養子となった。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月2日)

〔中国残留孤児初来日〕

 太平洋戦争終了時、満州(現在の中国東北地区)には、約150万の日本人が居住していたが、敗戦による引き揚げの過程で死亡、行方不明となった人々も多く、数万人に上る孤児が生じたといわれる。

 日本政府は、その孤児のうち、両親が日本人であって、日ソ開戦が直接の原因で両親が死亡または生き別れとなった当時12歳以下の者を「中国残留孤児」と定義している。

 その中国残留孤児が、1981年3月2日、肉親探しのために初来日した。東京・代々木の青少年総合センターで47人の対面調査が始められた。涙と歓喜のなか、30数年ぶりに肉親と抱き合う姿や、家族が見つけられずに悲嘆にくれる姿がTVに映し出され、戦争の傷跡を思い出させた。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月3日)

〔左近の桜と右近の橘〕

 内裏雛、三人官女、五人囃子……5段、7段と、豪華に飾られた雛人形の主役たちである。これは雛飾りに王朝時代の御所風俗が江戸時代に取り入れられたものとされる。

 向かって右側に桜、左側に橘が飾られるのもそのひとつで、京都御所の正殿・紫宸殿の前の両わきに植えられている「左近の桜」「右近の橘」を模したものといわれる。

 平安時代、左近の桜は天皇の御座所から見て左にあり、即位・朝賀・節会など重要な儀式のおりに左近衛府の官人が、この桜から居並んだことにその名は由来する。

 それまで梅だったのが、平安朝の仁明天皇の時に、人々が愛した桜に代えられたものだといわれる。

 また、右近の橘は天皇の御座所から見て右方にあり、右近衛府の官人がこの橘の所から居並んだことに由来している。『古事記』に出てくる垂仁天皇に尽くした田道間守の感動的な説話にもとづくという。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月4日)

〔前野良沢・杉田玄白腑分け見学〕

 1771年3月4日、江戸の千住小塚原の刑場で腑分け(解剖)が行われた。蘭学医の前野良沢・杉田玄白・中川淳庵は17年前に山脇東洋が初めて刑死体を見て書いた『臓志』を見て、漢方医の五臓六腑説に疑問を抱き、自分たちも実際に人体の内部を知りたいと考えた。

 そこで腑分けの許可を願い出、斬首された京都生まれの青茶婆という老女を腑分けすることになったのだが、医師が直接に死体に触れることは許されなかったため、雑役が腑分けするのを見学したのである。

 ドイツ人クルムスのオランダ語訳解剖書『ターヘルアナトミア』を片手に見入っていたところ、その解剖図と一致していることがわかり、日本語訳することにした。

 彼らは翌日からこの難事業にとりかかり、3年4カ月後に『解体新書』として刊行する。この間の苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月5日)

〔日本初のスチュワーデス〕

 女性の憧れの職種であり、現在多くの航空会社で活躍しているのがスチュワーデス。1931年3月5日は、そんなスチュワーデスが日本で初めて誕生した日である。

 今でも難関のスチュワーデスだが、エア・ガールという名で東京航空輸送会社が募集した日本初のスチュワーデス採用試験も、とても厳しいものだった。

 140人もの応募者のうち、130人は1次試験で落ち、最後の試験まで残った者は、わずか8人だという。

 この8人は最終試験で実際に飛行機に乗り、健康状態や顔色まで調べられた。こうして、この日の午後4時、数々の難関を見事に通過した3人の合格者が発表され、大空にはばたいたのだった。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月6日)

〔ゴシップの意味〕

 日本初の女性週刊誌『週刊女性』の創刊号の特集記事は「孤独女性は不道徳か」と題して、ハイミスの実態をさぐったものであった。

 女性週刊誌にはゴシップやスキャンダル(醜聞)の記事がつきものといわれるが、現在では「うわさ話・雑談・陰口」などの意味に用いられているコジップという言葉、もとの意味は全く違っていた。

 ゴシップ(gossip)とは中世英語の「godsibb」が変化したもので、godは神、sibbは「~と関係がある」という意味なのだ。つまりゴシップとは「神との関わり合い」という意味で、godparent(名づけ親、後継者)と同じ意味に用いられていた。

 名づけ親には親友がなることが多いため、godsibbは「親友」の意味にも使われるようになり、やがて「内輪の話」という意味になり、現在の意味に変化していったのである。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月7日)

〔江戸時代の消防隊「火消」〕

 日本の都市では伝統的に火事が多く、なかでも東京は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど江戸時代から度重なる大火に見舞われてきた。

 そのため、江戸には18世紀ころまでに3大消防組織が整備されていた。旗本が率いる「定火消」と大名への江戸幕府の課役である「大名火消」、そして民間組織の「町火消」がそれである。

 町火消の消防夫(ガエンと呼ばれた)は鳶人足が中心で、江戸っ子の典型として活躍し、定火消や大名火消の縄張りを侵すこともあった。

 当番の日には、彼らは大部屋で1本の長い丸太を枕に寝ていたという。火事が起きると半鐘が鳴り、つづいて出動の太鼓が叩かれ、大部屋の不寝番が丸太を小づちで叩き、ガエンたちを起こしたのである。もっとも実際には、丸太を叩かれるまで起きないような火消しはほとんどいなかったとか。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月8日)

〔国際婦人デー〕

 1904年3月8日、繊維関係に従事していたニューヨークの女性労働者たちが、低賃金や劣悪な労働条件の改善や参政権などを求めて集会を開いた。

 この運動に感銘を受けたドイツの婦人革命家クララ・ツェトキンは、1910年にコペンハーゲンで開かれた第7回国際社会主義者会議で毎年3月8日を「婦人の完全な政治的自由と平等、平和維持のために戦う日(国際婦人デー)」にすることを提案した。

 彼女は第1回国際社会主義婦人会議開催を主導するなど、婦人運動に指導的役割を果たした人物であり、ドイツ共産党創設に参加し、第3インターナショナル婦人局長として活躍した。

 日本での「国際婦人デー」は、1923年3月8日、社会主義婦人団体が東京・神田のキリスト教青年会館で「女だけの演説会」を開催、婦人の政治的・社会的・経済的自由を訴えたのが初めである。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月9日)

〔春の雪は牡丹雪〕

 別に3月9日だけの話ではないが、太平洋側では、真冬より春の声を聞いてから雪が降ることがよくある。

 まるで冬に逆戻りしたかのようだが、これは春ならではのことで、東シナ海で発生した低気圧が日本の南岸沿いを通るときに、北の冷たい空気を呼び込んだためだ。

 このとき降る雪は、牡丹(ぼたん)雪であることが多いが、これは上空での凍結温度が高いために、ふわふわとした大きな雪片になるためだ。

 一見積もりやすそうな牡丹雪だが、実際は降るそばから消えていく。あまりあっけなく消えてしまうことから、春の淡雪とか泡雪とも呼ばれる。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月10日)

〔応天門の炎上〕

 866年3月10日夜、大極殿の前にある応天門が炎上し、棲鳳・翔鸞の左右二楼も延焼するという大事件が起こった。

 この事件の経過を描いた絵巻物『伴大納言絵詞』によると、大納言伴善男は左大臣源信を失脚させるために、この事件を信らの反抗だとして直ちに責めたが、参議藤原基経や太政大臣藤原良房らによって信の無実が明らかになり釈放される。

 そして同年8月、放火現場の目撃者が現われ、犯人は善男の子中庸であることが暴露され、善男は伊豆、中庸は隠岐、共犯者の紀豊城は安房に流された。

 この結果、古代からの豪族である大伴氏や紀氏らは没落、藤原氏がさらに勢力を増したという。現在の人間からは優雅に見える平安朝でも、どすぐろい陰謀がうずまいており、後ろ暗いことの多い貴族たちは陰陽道や加持・祈祷に熱心だったのである。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月11日)

〔羽田空港にジャンボ機が初到着〕

 1970年3月11日、世界最大の旅客機ボーイング747型機(ジャンボ機)の日本への第1便が東京国際空港(羽田空港)に到着した。

 このパンアメリカン航空の巨大な旅客機をひと目でも見ようと押しかけた約1万人の見物客が見守るなか、172人の乗客は3時間後にホノルルへと旅立った。

 ボーイング747型機は、最高490人乗り、全長70m、全幅60m、巡航速度毎時900km、航続距離1万1000kmという大量輸送旅客機である。ボーイング社が4年の歳月をかけて開発したもので、当時は1機78億円であった。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月12日)

〔お水取り〕

 3月1日~14日に「修二会(しゅにえ)」が行われる。修ニ会とは浄土世界の修行を人間世界に移して行うもので、奈良・東大寺の二月堂で12日に行われる儀式「お水取り(お松明)」はつとに有名である。

 東大寺では、開祖・実忠和尚が752年に始め、2週間にわたって観音様の前で自分の罪過を反省し、仏徒としての魂を鍛練する。

 参籠(さんろう)する僧侶には厳しい潔斎(けっさい)と修行が課せられる。その間は毎夜、大松明が灯されるが、12日の深夜には籠松明という特に大きな松明が振り回され、参詣の人々は争ってこの火の粉を身にうけ、厄除けにしようとする。

 午前2時ころには、呪師や練行衆が堂の下の閼伽井(あかい)の香水(若狭井から送られる聖水)を汲みあげ、本堂の仏前に供す。この水をいただけば病難を免れ、奈良ではお水取りがすめば春がくるという。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月13日)

〔上杉謙信の死〕

 1530年に越後守護代長尾為景の子として生まれた上杉謙信だが、彼は虎千代、景虎、輝虎という名から、1570年に入道して謙信と名乗るようになった。

 1548年には家督を継ぎ、越後を統一する。1553~1564年に武田信玄と5回にわたって闘った川中島の合戦は特に有名だが、勝敗は決しなかった。

 1561年には上関東管領上杉憲政を継ぎ関東管領となる。1576年に上洛した織田信長に追われ備前に亡命していた、将軍足利義昭から「武田・北条と和睦し、安芸の毛利、摂津の石山本願寺、大和の松永と呼応して入京し、信長を討って将軍家を再興されたい」という密書を受け取り、能登の七尾城に猛攻を開始する。

 翌年 9月には開城させ、北陸を制覇する。将軍義昭の命を奉じて毛利氏と連合、信長に迫ろうとしていた。しかし、その寸前の1578年3月13日、謙信は春日山で病死してしまう。齢49歳であった。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月14日)

〔何故バカヤローで解散なのか〕

 衆議院の解散はよくあること、総理大臣ともなれば、誰でも一度は経験したいものらしい。しかし、こんなきっかけで解散するのは珍しい。

 1953年2月28日の国会(予算委員会)で、国際情勢についての質疑応答を行っていた戦後史のドン・吉田茂首相と社会党の西村議員は、互いに興奮していた。

 そうしてついに、吉田首相はあまりに噛み合わない西村議員に「バカヤロー!!」と言ってしまったのである。

 このことが野党に追及され、ついには吉田内閣に対する「内閣不信任案」が国会で可決されるまでに発展する。その結果、結局、吉田首相は53年3月14日に衆議院を解散することになったのだった。

 吉田茂といえば、資本主義体制国との単独講和を行ない、日米安保体制をしくなど、占領軍の指導のもとで日本の立直しを遂行した戦後史の大御所である。ワンマン首相として知られる彼は、こうした逸話にこと欠かない大人物であった。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月15日)

〔日光は光り輝いてない?〕

 1961年3月15日、鳴瀧で有名な日光東照宮の薬師堂が焼失した。ところで「日光」という地名から、太陽が輝くさまを想像する人も多いかもしれない。

 芭蕉も『奥の細道』の旅の途中、この地を訪れて「あらたうと青葉若葉の日の光」という句を詠んでいる。けれど、日光という地名はたんなる当て字にすぎず、日の光とは本来なんの関係もない。

 中禅寺湖のそばに男体山と呼ばれる標高2500m近くの山があるが、この山は 1200年ほど前に勝道上人によって開山されたといわれ、かつては「二荒(ふたら)山」「補陀洛(ふたらく)山」と呼ばれていた。

 その「二荒」を「にっこう」と音読みし、それに「日」と「光」の字を当てたのが「日光」の地名の由来なのだ。ちょっと残念な話ではある。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月16日)

〔国立公園のはじまり〕

 1934年3月16日、31年制定の国立公園法に基づき、日本で初めて国立公園が指定された。当初は世界に誇れる景観を見てもらうのが狙いで、海岸や山岳の景色の素晴らしいところが主に選ばれ指定された。

 1949年には国立公園法が修正されて、国立公園に準ずる国定公園を新たに設置することとなった。1957年には、自然公園法に改められて、都道府県立公園も生まれた。

 2020年2月現在、日本の国立公園の数は34箇所となっている。

 自然公園法では、国立公園は国が指定・経営管理し、自然景観や野生生物の保護をはかるとともに、国民の野外レクリエーションや教育に利用することなどを目的としている。

 天然資源を国家が保護する方針をとったのはアメリカが最初で、イエローストン国立公園設定の法案にグラント大統領が1872年に署名した。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月17日)

〔彼岸の入り〕

 春分の日をはさんで前後3日間の計7日間を彼岸といい、春は毎年3月18日前後が「彼岸の入り」となる。

 「彼岸」という言葉は、梵語の「ハラミッタ」を訳したもので、つまり「生死のあるこの世界を此岸、涅槃の世界を彼岸、その間に横たわる煩悩を中流とす」という哲学的な考えからきたものとされる。

 彼岸の行事は、桓武天皇が法令をもって崇神天皇追善のため全国の国分寺の僧侶に春秋2回、7日間ずつ金剛ハラミッタ経を読経させたのが始まりで、それが全国民の祖先供養の日となっていったといわれる。

 この行事はインドや支那にもない日本独特のものである。この時期にはちょうど太陽が真西に沈むので、これによって涅槃の所在を大衆に示し、その世界に到達できるように祈念したとか、春分・秋分の日は昼夜等分の日であることがちょうど仏教で尊ぶ中道ということに合致するためなどといわれている。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月18日)

〔明治にふれる〕

 1965年3月18日、明治建築の保存と公開を目的として愛知県犬山市に「明治村」が開村した。

 明治村は名古屋鉄道株式会社社長・土川元夫と建築家・谷口吉郎の協力で、62年より組織された財団法人により、名古屋鉄道所有の土地に明治建築を収集、移築したものである。

 聖ヨハネ教会、旧帝国ホテル、三重県庁舎、夏目漱石の家から、長崎や神戸の異人館、灯台、天主堂、芝居小屋、小学校、牛肉店、医院など、現在では50以上の建築物が森や湖のある100万平方mに及ぶ広大な土地に点在している。

 日本最初のチンチン電車や汽車がその間を縫って走っていて懐かしい。ここでは、明治という時代がどのようにして始まり、どのように展開したのか、また、そこに生きた人々がどのような生活をしていたかを建物を通して見つめ、この手で確かめてみることができる。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月19日)

〔桜前線は気象用語ではない?〕

 3月19日ともなれば、そろそろTVなどで「桜前線」が話題にのぼりはじめる。桜前線は、すみれ前線、桃前線などとともに「花の前線」のひとつである。

 ただ「前線」などというと、いかにも気象の専門用語のようだが、実は気象庁の公式用語ではない。1963年に気象庁のお天気相談所がマスコミのために作った言葉で、本来は「開花(満開)等期日線」というのだそうだ。

 春になると全国の気象台が桜の予想開花・満開日を発表するが、これらの日のところを1本の線でつなぐと天気図の梅雨前線などに似ているためにこう呼んだらしい。

 基準にする桜は本州ではソメイヨシノで、2月から3月の気温をもとにして開花と満開の予想日の桜前線を引く。

 桜の開花には数百年間の記録もあり、気候の変遷を知るのに便利で、昔は農民がその年の稲の実り具合を、桜の咲きぶりで占ったという。

 花見も本来は暮らしに密着した神事で、花の下で酒を酌み交わすのも、それに付随した神聖な行為に由来するのである。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月20日)

〔東京国立博物館と上野動物園〕

 湯島聖堂を陳列館として1871年に発足した日本最初の博物館・東京国立博物館(旧称:宮内庁管理の帝室博物館) が、上野公園内に移転して1882年3月20日に開館した。

 また、その附属施設として日本初の動物園・上野動物園(東京都恩賜上野動物園)も併せて開園した。

 東京国立博物館はイギリス人コンドルが設計した建物で、1937年には現在の本館が竣工、ほかに表慶館、東洋館、法隆寺宝物館があり、現在では国宝、重要文化財をはじめ、美術、工芸、歴史、考古、民俗資料など約10万点が所蔵されている。

 上野動物園は開園当初、水牛、猿、鷲などが人気を集め、入場料は平日で1銭、日曜日は2銭だった。現在の総面積は約14万平方mで、東園、西園に分れ、水上動物園、アフリカ生態園、水族館も付属。約900種、約1万点の動物が飼育展示されている。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月21日)

〔「のどか」と「うららか」〕

 彼岸も終わると、日もゆるんできて、のどか(長閑)でうららか(麗らか)になってくる。のどかとは、静かで穏やかなようすをいい、うららかとは、日の光ののどかなさまをいう。

 ではこの語源はどこからきたのか。のどかには、ノビトオヤカとかノドケの転訛という説がある。記紀・万葉のころは単に「のど」といい、季節感とは関係なかったが、10世紀初めには日和そのものを言い表すようになり、春の季節を表現する言葉として使われるようになった。長閑の「長」は日の長さをさすとか。

 一方、うららかは、古代の「うらうら」という言葉が「うらら」(文部省唱歌『花』でも「春のうららの隅田川」と歌われている)と略されたものに、接尾語の「か」がついたものだといわれている。

 もとの「うらうら」は江戸時代の語学書『言元梯』では「ユラユラ(寛々)の転」としているが、ユラユラはゆったりとしたといった意味と思われる。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月22日)

〔人力車普及の理由〕

 1870年3月22日、東京府(現在の東京都)が人力車の製造・営業を許可した。許可を受けた人物のなかに東京の料亭で働いていた和泉要助という人物がおり、彼が一般に人力車の発明者だといわれている。

 人力車は当初、なかなかお客がつかなかったが、もの珍しさから次第に人気を集め、数年後には全国的に普及するようになった。

 当時、車賃は籠賃の約2倍だったが、籠より早くて乗り心地はよかった。また、人力車は座席の高さも人気の秘密だった。

 それまで侍や商人にひざまづきながら見上げる暮らしを強いられていた庶民にとって、人力車に乗って人を見おろしながら走ることは実に気持ちがよく、人力車の普及の背景にはそうした庶民感情も働いていたといわれる。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月23日)

〔緒方洪庵の適々斎塾〕

 大塩平八郎の乱がおこった翌年の1838年3月23日、緒方洪庵は、大阪の瓦町で医学・蘭学を教える適々斎塾(適々塾、適塾とも)を開設した。

 洪庵の医師・医学者としての実力と人柄、医学を志す者以外にも広く洋学を教える開放的な塾風から、3000人もの塾生が集まったという。

 そこからは維新や明治期に活躍する、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎など多くの人材が育った。

 1810年に備中足守で生まれ、大阪で医学を学んだ洪庵は、1830年に江戸で蘭学を学び、1836年には長崎で蘭方の知識を深めた。1862年には幕府に迎えられて奥医師兼医学所頭取となったが、翌年には江戸で急死している。

 医師としては種痘の普及やコレラの治療を行い、その熱心で適切な治療は、西洋医学に対する信頼や蘭学医の社会的地位を高めたといわれ、著書も多い。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月24日)

〔梶井基次郎の不遇な死〕

 1932年3月24日、梶井基次郎は第三高等学校時代以来の持病だった肺結核のため、大阪府住吉区の自宅で母に看取られながら31歳の生涯を終えた。

 1901年に大阪に生まれた梶井は、東大英文科在学中の25年に同人雑誌『青空』を創刊した。この年に『檸檬』など青春の虚無と退廃の詩情を繊細な文体で綴った秀作を続々と発表したが、文壇からは黙殺された。

 結核のために大学も中退し、その後も不遇な時期が続いた。大阪での療養生活を描いた『のんきな患者』でようやく文壇も認めるところとなったが、皮肉にもこれが絶筆となってしまった。

 彼の書き残した作品は、いずれも短編あるいは散文詩風のもので、量も多くはない。しかし、鋭い感受性と的確で豊かな詩情の混じり合った美しい表現は、死後ますます高く評価されて、1935年には『梶井基次郎全集』3巻が刊行されている。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月25日)

〔自費出版から生まれた名作〕

 1906年3月25日、島崎藤村の長編小説『破戒』が自費出版された。被差別部落出身の小学教員・瀬川丑松を主人公に、無知や因襲と戦い、解放を求める人間の苦悩を描いたこの作品は、日本の自然主義文学の代表作とされる。

 藤村は本名・春樹といい、1872年に木曽(長野県)馬籠宿で、本陣・問屋・庄屋の家系の四男として生まれた。1881年には上京し、その後明治学院へ入学したが、ナポレオンの伝記を読んで政治家を志したという逸話もある。

 キリスト教に入信し、卒業後は明治女学校教師となり、教鞭を執るかたわら文学を志す。『文学界』創刊とともに同人となって北村透谷に心酔し、1897年に第1詩集『若菜集』を出版、近代詩に浪漫主義を確立する一方、自然主義小説に傾倒していった。

 『破戒』ののちも『家』『新生』『夜明け前』などの名作を残し、1943年に死去した。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月26日)

〔「一番風呂」の功罪〕

 毎月26日は「風呂の日」だ。家庭に風呂のある人でも、たまには銭湯へ行ってみるのもいい。

 さて、家風呂でとかく争いになるのが風呂に入る順番である。先に入りたがる者もいれば、逆に昔からの「さら湯は身の毒」とか「一番風呂は馬鹿が入る」という考えにこだわって、新しいお湯に入りたがらない者もいる。

 特に老人にはよくないといわれるが、この説にはそれなりの科学的根拠もあるらしい。新しいお湯に入ると、体内のカリウムやナトリウムなどの成分が出ていってしまうというのである。

 お湯が新しいほど多く流出するといわれ、新陳代謝があまり活発でない年寄りほど身体に悪いというわけだ。また、若い女性が入ったあとのお風呂は「ホルモン風呂」などといって体にいいという説もある。男性より女性の方が有機物を多く出すとか、女性ホルモンとの関係も云々されるが、それには確たる論拠はない。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月27日)

〔切腹の本当の理由は謎の千利休〕

 1591年2月28日、茶道の開祖・千利休が豊臣秀吉の怒りに触れて自害したといわれる。その1カ月後れの3月27日が利休忌とされ、表千家は27日、裏千家は28日に追善茶会を行っている。

 1522年に堺に生まれた千利休は、北向道陳に茶の湯を学び、のちに武野紹鴎に師事した。織田信長、豊臣秀吉に重用され、1585年、秀吉の関白就任にあたり茶会が禁中小御所で開かれた際、正親町(おおぎまち)天皇に茶を献じて、利休居士の号を贈られている。

 1587年には秀吉とともに北野大茶会を開くなど天下一の茶匠となった。草庵風の茶室を完成し、茶道を民衆の生活のなかに根づかせたが、秀吉の怒りにふれて切腹することとなった。

 その原因については大徳寺山門に自像を置いたことなど諸説あるが、事実は定かではない。織田有楽斎、細川忠興など数多くの弟子に受け継がれた利休の茶の流れは、3世宗旦から表千家、裏千家、武者小路千家の三千家に分かれ、今日にいたっている。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月28日)

〔「新婦人協会」結成〕

 1920年3月28日、青鞜社の文学活動で知られる平塚らいてう(雷鳥)の主唱のもと、市川房枝、奥むめおといった女性運動家が日本で初めて女性の政治的自由を要求した進歩的女性団体「新婦人協会」を結成した。

 彼女らの主張は「婦人の能力を自由に発展せしめるため男女の機会均等」「男女の価値同等観のうえに立ち、その区別性を認め、相互の協力を主張すること」「婦人、母、子供の権利を擁護し、その利益の増進をはかるとともに、これに反する一切を排除する」というものであった。

 会員は400名を越え、機関誌『女性同盟』を刊行する。婦人の政治的活動を禁止した治安警察法第5条の撤廃請願運動、性病男子の結婚禁止法制定促進運動など積極的な活動を展開、治安警察法の改正に成功したが、内部対立が原因となって1922年12月には解散した。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月29日)

〔サーロイン・ステーキの語源〕

 毎月29日は、「ニク」のゴロ合わせから肉の日となっている。肉といえば、ステーキ。ステーキといえば、サーロイン・ステーキが有名だが、牛の上部腰肉の sirloinは、ステーキ肉でも最上級とされ、その命名についてはイギリスのヘンリー8世に由来するという説がある。

 彼はローマ教皇と喧嘩してイギリス国教会を作ってまで離婚を強行した。次々と妻を斬首しては6人もの女性と結婚したことで知られる王様だが、食道楽としても有名だった。

 彼の食べた腰肉(loin)があまりに美味しくて、サー(sir)の称号を与えたというものだ。

 だが、サーロインの語源はフランス語の「シュールロンジュ」(surlonge)に由来するという説もある。シュールは「上」で、ロンジュは「背肉」の意味だ。ロンジュよりさらに上側をシュールロンジュといい、シュールロンジュが英国に入って「サーロイン」になったという説である。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月30日)

〔嫌われものだったエッフェル塔〕

 1889年3月30日、パリ万国博覧会のために計画されたエッフェル塔がパリのシャン・ド・マルス広場に完成した。4年前のロンドン万国博覧会の水晶塔に対抗したもので、鉄骨構造技術の開拓者エッフェル(塔の下に像がある)の設計で建てられた。

 力学的構造がそのままデザインの美しさになっており、ベッセマー鋼使用による鋼構造物時代を開いた記念的存在でもある。

 しかし、17カ月の日数と650万フランの工費をかけて作られ、今でこそパリ名物になっているこの塔も、当時はパリの美観を損なうものだといわれ、1909年には解体寸前にまでなったこともある。

 第2次大戦後は放送に利用され、アンテナを含む高さは320mになった。エッフェル塔は自殺の名所としても知られ、1年平均4件の飛び降り自殺が起きているという。


ページのトップへ戻る

今日の面白雑学(3月31日)

〔日本初のハイジャック〕

 1970年3月31日、日本航空史上初の旅客機乗っ取り事件『よど号事件』が起こった。

 乗客131人と乗員7人を乗せて羽田を離陸し福岡へ向かっていた日本航空の午前7時21分発351便・ボーイング727(よど号)は、富士山近くを飛行中の7時30分ごろ、赤軍派と称する学生らしき数人に日本刀を突きつけられ、朝鮮民主主義人民共和国の平壌へ行けと命じられた。

 機長は燃料不足を理由に福岡空港に着陸する。この時点から TVの生中継が始まり、多くの国民が固唾をのんで事態の推移に見入った。

 犯人への必死の説得も成功せず、よど号は北朝鮮に向かい、運輸政務次官の山村新治郎が身代わりとなって乗客は全員解放された。

 共産主義者同盟赤軍派の田宮高麿以下8名の犯人は北朝鮮へ入国を果たし、よど号が羽田に帰還したのは4月5日午前9時であった。



世界の偉人館おすすめ今日の運勢館

ページのトップへ戻る