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〔今日の雑学〕

6月

1月2月3月4月5月6月
7月8月9月10月11月12月
 

 一年中のどんな日にも、長い歴史の中で大事件が起こったり、歴史に名を残す偉大な人物が生まれたり、偉大な発見や発明がなされたりしています。

 あるいは、後世の人たちが永遠に楽しめるような魅惑的な音楽や芸術作品が登場したりするものです。

 歴史に多大な影響を与えるような出来事があれば、それに伴い様々な逸話が誕生したりもします。このコーナーでは、その日に関連するそんな逸話のようなものを掲載しています。それなりに示唆するものがありますから、楽しんで下されば嬉しいです。



 毎月のカレンダーに載っているような大事な記念日などは、だれでも大体の見当がつくものです。

 とはいえ、日本では6月に国民の祝日はありませんし、6月1日~6月7日が「水道週間」であることや、6月4日~6月10日が「歯と口の健康週間」、6月第1日曜日が「プロポーズの日」、6月第3日曜日が「父の日」であることなどは、ちょっと想像できないですね。

 このような国民の祝日などに限らず、たとえば、あなたと同じ誕生日にはどんな有名人がいて、どんな逸話を残してくれたかなども興味が湧きますね。そこで、6月の毎日のことに関連する逸話などを調べてみました。

1日 ・カラー・フィルムの発明
2日 ・梅雨の呼び方の歴史
3日 ・ペリーとの交渉で使われた言葉
4日 ・麦の秋の頃
5日 ・深刻なオゾン層破壊
6日 ・ノルマンディー上陸作戦
7日 ・不遇の天才、ゴーギャン
8日 ・イスラム教の創唱者マホメット
9日 ・思想家ルソーの子供たち
10日 ・水戸光圀はなぜ黄門様か
 
11日 ・雨が降ったら傘をたたむ?
12日 ・「彼氏」は新しい?
13日 ・アジサイのルーツは?
14日 ・ホワイトハウスはなぜ白い
15日 ・お父さんはどうして「大黒柱」
16日 ・三面記事は三面になんかない
17日 ・日曜日はいつから休みに?
18日 ・船名にはなぜ丸がつくのか
19日 ・富士山の名はどこから?
20日 ・初めての日本製映画
 
21日 ・梅雨には何故ものが腐りやすい
22日 ・シェフは何故スカーフをする?
23日 ・初の駅弁はおにぎり弁当
24日 ・大雨の記録
25日 ・畳の由来
26日 ・国産製石鹸の第一号
27日 ・ペンネームあれこれ
28日 ・洋酒の日本登場はいつ
29日 ・神社ではなぜ柏手を打つか
30日 ・てるてる坊主の起こりは?



おもしろ雑学

今日の面白雑学(6月1日)

〔カラー・フィルムの発明〕

 6月1日は「写真の日」だが、実用的なカラー・フィルム製版法を完成したのは「ゴッド」ことレオポルド・ゴドフスキー・ジュニアと「マン」ことレオポルド・マニスというふたりの発明家である。

 彼らはニューヨークの高校時代、写真が趣味だったことから知り合った。

 1917年、総天然色が売りものの映画を見にいったが、質の悪さに憤慨し、優れたカラー・フィルム製版法の開発にとりかかる。

 だが、イーストマン・コダック社からの技術援助と投資会社や親からの資金援助を受けながらも、研究は遅々として進まなかった。

 1930年にはコダックのスタッフに迎えられ、3年後ようやく2色フィルムを完成した。そして、即時発売を望むコダックをおさえて、さらに3原色フィルムの完成に没頭する。ついに、1935年4月15日、夢の結晶であるコダクローム・フィルムが全世界に発表されたのである。


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今日の面白雑学(6月2日)

〔梅雨の呼び方の歴史〕

 北海道などの一部を除き、日本の6月は梅雨の季節である。昔は梅雨のことを「五月長雨(さつきながあめ)」「五月雨(さみだれ)」と呼んでいた。

 さみだれの「さ」は「さつき(五月)」の「さ」で、また「みだれ」は「水垂れ」の意味だった。

 それを「梅雨(ばいう・つゆ)」というようになったのは江戸時代以降で、梅の実が熟するころの雨という意味の「梅雨」という言葉そのものは大陸から入ってきたという。

 中国では「梅雨」と書いて「マイユー」と読むが、日本で「つゆ」と読むようになったのは、一説には「露」に通じるからだといい、一説には梅雨のころには物がしめって腐りやすくなるからだという。

 つまり、物が腐って「ついえる=そこなわれて減ってしまう」ことから梅雨のことを「つゆ」と呼ぶようになったというのだ。またほかにも、梅の実が「熟する=成長する=つはる」からきたという説もある。


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今日の面白雑学(6月3日)

〔ペリーとの交渉で使われた言葉〕

 1853年6月3日、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ペリー提督の乗り組むミシシッピー号など4隻の軍艦が浦賀に来航した。

 ペリーは、対中国貿易のための寄港地として日本の開国を求めるフィルモア大統領の国書を携えており、日本中が上を下への大騒ぎになった。

 当時、日本で英語を知る者は少なかったので、交渉にはオランダ語のできる日本人が通訳にあたった。

 通訳はまず「私はオランダ語を話すことができる」と英語で話しかけたのでアメリカ側は驚いたが、彼の話せる英語はそれだけだったとか。

 翌年、ペリーが再来し、日米和親条約が締結された時には、オランダ語通訳のほか、ペリーの船に中国人が乗っていたので、漢文による筆談で交渉した。

 しかし、漢文と日本語のニュアンスの違いから条約文にいくつかの誤りを生じさせてしまったという現実がある。


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今日の面白雑学(6月4日)

〔麦の秋の頃〕

 「麦の秋の頃」って、初夏なのに「秋」とは不思議な表現だ。

 麦が実り熟する5月末から6月初旬のころを「麦の秋」「麦秋(ばくしゅう・むぎあき)」といい、俳句では夏の季語となっている。

 ではなぜ「秋」なのだろうか。それは、秋がもともと穀物などの熟する時期を意味したためで、初夏であっても麦が熟する時だから「麦の秋」と呼んだのだ。

 麦秋という言葉自体は、大陸からはいってきたもので、陰暦4月の異名とされているが、ただ「むぎあき」はそれを単に訓読みしたものではない。日本の農村でも古くから米が実る9~10月を「米あき」と呼んできたように、麦の秋という呼び方はあったらしい。

 ちなみに「竹の秋」という言葉もあり、これは竹の葉が黄ばむ晩春をいい、仲秋は若竹が鮮やかな緑に茂るので「竹の春」と呼ぶ。

 対して「麦の春」という言葉はないが、麦蒔きする11月のころの暖かい陽気を人々は「小春日和」と呼ぶ。


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今日の面白雑学(6月5日)

〔深刻なオゾン層破壊〕

 熱帯林やオゾン層破壊などの地球規模の環境問題は深刻である。オゾン層は地上12キロから50キロにかけて、オゾンが濃く溜まっている層で、太陽からの有害な紫外線を吸収してくれている。

 1982年に、ここに大きな穴が開いていることを最初に発見したのは、南極の昭和基地で観測をしていた日本人研究者だった。

 フロンガスがオゾン層を破壊する可能性は、1974年にすでに提唱されていたが、最初はほとんど認められなかったという。

 オゾンホールの周囲にフロンが分解してできた塩素化合物が高密度で存在することが確認されたことで、破壊の原因はほぼフロンと断定された。

 オゾン層の破壊による有害紫外線の増加は、皮膚ガンや農作物の減収などの被害をもたらすが、フロンはきわめて安定した物質であり、オゾン層に到達するまでにはかなりの時間がかかるという。

 すでにフロンは全廃されたが、現在オゾン層に到達しているのは、これまで使用したうちの2、3割でしかなく、21世紀はじめまではオゾンホールが拡大していくだろうといわれていた。


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今日の面白雑学(6月6日)

〔ノルマンディー上陸作戦〕

 1940年6月のパリ陥落以来、フランスは2分割され、北半分はドイツ軍に占領されていた。

 しかし、ド・ゴール将軍らはロンドンに逃れ抵抗運動を続行していた。ロンドンのBBC放送は1944年6月5日21時15分、ヴェルレーヌの詩の一節「身にしみてひたぶるにうら悲し」を放送した。

 これは占領地域奪回をめざしフランスに上陸する暗号だったのだ。

 連合軍はアイゼンハワー元帥指揮の下、艦船5000、兵員20万を動員して、6月6日(D-DAY)00時20分、最初の部隊であるイギリス第6空挺師団が北仏のノルマンディー半島に落下傘降下した。

 次いで、06時30分にはアメリカ兵団を主力とする U部隊がラ・マドレーヌ村近くに上陸し、さらに夕方までには15万人が上陸した。これによっていわゆる「第2戦線」が形成され、戦局に一大転機をもたらし8月にパリは解放されたのである。


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今日の面白雑学(6月7日)

〔不遇の天才、ゴーギャン〕

 1848年6月7日に、ポール・ゴーギャンがパリで生まれた。彼は35歳で株式取引店を辞め、妻子とも別れて画業に専念する。

 初めはピサロに学んで印象派に接近したが、ブルターニュとマルティニク島を往復している間にサンテティスムに魅せられ、華麗で装飾的な象徴主義絵画に到達した。

 サンテティスムとは、ポンタバンにいたゴーギャンやベルナール、セリュジエらによって試みられた絵画手法で、印象派の筆触分割・点描に対して、平塗りの色面と輪郭線によって対象を単純化し、形と色の総合を目ざした手法である。

 その後、ゴーギャンはゴッホと共同生活したアルル、10年余り滞在したタヒチ島で数々の傑作を残したが、マルキーズ諸島のドミニカ島で不遇と孤独のうちに死を迎えた。

 同じく不遇の人ゴッホが自分の耳を切り取り、ゴーギャンに送った話は有名である。


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今日の面白雑学(6月8日)

〔イスラム教の創唱者マホメット〕

 632年2月にメッカでの大祭を指揮したアラブの予言者マホメット(ムハンマッド)は、ミーナの谷間で人々に「すべての信者はみな兄弟」と唱えた。

 そして「あなたたちはすべて等しい」と説教したのである。彼は、メッカに戻ってから健康を損ない、632年6月8日に没した。

 570年(71年説も)にメッカの支配者クライシュ族の一門ハーシム家に生まれたマホメットは豪商の未亡人ハディージャの手代として隊商貿易に従事し、25歳でハディージャと結婚した。

 610 年ころアラーの啓示を受けたといい、イスラム教を創唱する。クライシュ族の迫害を受けたが、イスラム軍を率いてバドル、ウフド、ハンダクで戦い、630年にはメッカを陥落させた。

 その前後に『コーラン』を最高の経典とし、マホメットを最高の予言者とする天啓を受け、イスラム教の根本的性格を確定した。ちなみに彼には妻が12人いたという。


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今日の面白雑学(6月9日)

〔思想家ルソーの子供たち〕

 「自然に還れ」という名言で知られるフランスの啓蒙思想家ルソーの著書『エミール』は、今では児童教育のバイブルと呼ばれている。

 しかし、出版当時はその異端性のため裁判にかけられ、1762年6月9日には有罪判決を受けている。

 主人公エミールの誕生からソフィーとの結婚までの成長過程に従って教育論を説く『エミール』は、自然に従うことを教育の根本と説き、近代の教育理念、社会構造に対する批判を鋭く展開したものであった。

 彼は「父親の義務を果たすことのできない者は、父親になる資格もないと主張し、父親たる者は、貧乏とか職業とかさまざまな人間的要因を理由にして、子供を養育し、教育をする義務から免れえない」と述べている。

 しかし、ルソー自身は、まったく逆であった。32歳で妻テレーズと出会った彼は、6年間で5人の子供をもうけたが、貧乏だったため、生まれてきた子供を片っぱしから捨子養育院に送り込んだのだった。

 10数年後、子供たちに会いたくなったものの、子供たちの誕生日も覚えておらず、結局、その後1度も会うことはなかったという。


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今日の面白雑学(6月10日)

〔水戸光圀はなぜ黄門様か〕

 助さん、格さんを従え、諸国を旅する黄門様はドラマでお馴染みのおじいさんである。

 水戸光圀を黄門と呼ぶのは「余は先の中納言、天下の副将軍なるぞ」という名セリフにもある官名・中納言からきたものだ。

 朝廷が与える官名は唐の律令制にならっており、日本の中納言にあたる官名が中国では「黄門侍郎」といわれる。

 それで黄門様と呼ばれるようになったのだが、実際の黄門様はドラマのような諸国漫遊はしていない。


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今日の面白雑学(6月11日)

〔雨が降ったら傘をたたむ?〕

 万延元年、咸臨丸で渡米した勝海舟の土産はアンブレラだったとか。

 明治に入り、文明開化のシンボルとなった洋傘だが、すべて輸入品で、一本二両と高価だったため、雨が降ると傘が濡れないように小脇に抱えて走る人もいたとか。

 明治16年ころから、輸入部品の組立がおこなわれるようになり、やがて和製洋傘が中国などのアジアに輸出されるようになっていった。


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今日の面白雑学(6月12日)

〔「彼氏」は新しい?〕

 恋人といえば彼氏と彼女というのは、今も昔も変わりはない。ところが、実は「彼女」より「彼氏」の方が新しい言葉だという。

 「彼氏」という言葉を初めて使ったのは、昭和の初期に東京赤坂にあった葵館の弁士・徳川夢声だという。

 無声映画の説明に用いたのが始まりで、それが流行語になったものだといわれている。


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今日の面白雑学(6月13日)

〔アジサイのルーツは?〕

 今、花屋さんで売られているアジサイは、大半が西洋アジサイである。

 アジサイの花は本来の花ではなく、装飾花といって萼(がく)が変化したもので、こんもりと装飾花をつける品種はヨーロッパで生まれた。

 しかし、もとをただせば、日本のガクアジサイが18世紀の終わり頃、中国を経てヨーロッパに渡り、かの地で改良されたものなのである。このためか、姿は変われど、やはりアジサイは日本の梅雨によく似合う。


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今日の面白雑学(6月14日)

〔ホワイトハウスはなぜ白い〕

 米大統領官邸はホワイトハウスである。外壁の色からこう呼ばれているが、完成当初から真っ白だったわけではない。

 独立間もない1814年、米英戦争の戦火で大半が焼失し、改装の際に焼けこげを隠すために白く塗られ、それ以降ホワイトハウスと呼ばれるようになったという。

 ホワイトハウスが正式な呼称となったのは、第26代のルーズベルト大統領が便箋にホワイトハウスの名を入れてからのことだ。


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今日の面白雑学(6月15日)

〔お父さんはどうして「大黒柱」〕

 今日では、ややもすれば忘れられがちなものに「大黒柱」という言葉がある。

 日本家屋の構造の要であり、ひいては一家を支える父親の代名詞ともなったこの名前は、かつて家の要となる柱の片側に面して台所が置かれていたことに由来するものだという。

 台所には、食べ物を集めてくる神様・大黒天が祀られていたので、この柱を称して大黒柱というようになったのだ。


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今日の面白雑学(6月16日)

〔三面記事は三面になんかない〕

 新聞の社会面を三面記事と呼ぶことがあるが、実際は三面にあるわけではない。

 これはかつて新聞が四面しかなかったころの呼び名がそのまま残っているからなのだ。

 明治時代の新聞は四面で構成され、一面が広告、二面が政治・経済、三面が社会、四面が連載小説や家庭・文化という構成になっていた。

 社会面を三面記事というのは、この名残なのである。


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今日の面白雑学(6月17日)

〔日曜日はいつから休みに?〕

 毎週やってくる最初の曜日が、日曜日であり、一週間の始まりである。

 日本では、一千年も前から日曜から土曜まである七曜の暦を使っていたが、これは休日のためではなく、生活の吉凶を占うためのものだった。

 日曜を休むようになったのは明治7年、公官庁や学校が休むようになってからのことで、それまでの休みといえば盆暮れ正月くらいものだった。


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今日の面白雑学(6月18日)

〔船名にはなぜ丸がつくのか〕

 日本の船は外国で「マルシップ」と呼ばれているそうだ。

 これは日本の船の多くに「丸」という名前がついているから。

 この「丸」は、もともと「麿(麻呂)」だったものが、転じて「丸」となったものだという。

 人麿や仲麻呂のように人名に使われた麿が船の名になったのは、ものにも魂が宿っていると信じていた昔の人が、愛用の品物に人間のような名前をつける習慣があったからだ。


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今日の面白雑学(6月19日)

〔富士山の名はどこから?〕

 「富士には月見草がよく似合う」と太宰が言った富士山だが、フジという名の由来については諸説ふんぷんである。

 二つとない美しい山ということで「不二」という説、「福寿山」というめでたい名前がなまったという説、噴火を意味するアイヌ語「push」からきたという説、マレー語ですばらしいという意味の「puji」からきたという説などがあるが、これらは、いずれも決め手には欠けるようだ。

 「富慈山」からきた名前だという人もいますが、いずれもあて字のように思われる。

 現在、最もそうだと思われているのは、竹取物語のように不老不死の伝説から、「不死山」と呼ばれるようになったという説である。

「富士山」という今日の書き方は、「士(こころざし)」に富む山という意味で、武士道が発達する鎌倉時代以降のものと考えられる。


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今日の面白雑学(6月20日)

〔初めての日本製映画〕

 映画が初めて日本に輸入されたのは明治29年のことで、アメリカのエジソン社から、5000ドルの大金を払って機械一式を買ったのが始まりである。

 その後、今度はフランスから「シネマトグラフ」が輸入され、「活動写真」の名のもとに人々に知られるようになったのだ。戦後、まもなくの頃の子供たちは、現在の映画のことを、誰でも単に「活動」と呼んで憧れていた。

 1899年(明治32年)のこの日、6月20日、東京・歌舞伎座ではじめての日本製映画が上映されることになった。

 映画は、銀座や浅草、日本橋などを実写したり、当時の人気芸者の踊りなどを映したもので、一世を風靡したのだった。


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今日の面白雑学(6月21日)

〔梅雨には何故ものが腐りやすい〕

 誰でも知るように、梅雨時は食品にカビがはえたり、腐ったりしやすい季節だ。冷蔵庫のなかった昔は、とくに梅雨時の食品保存が大変だった。

 暑い夏の盛りより、梅雨時のほうが腐りやすいのは、湿度との関係がある。

 バイ菌が繁殖しやすい条件は、湿度が80パーセントのときは、気温25度から 30度くらいなのだが、湿度が90パーセントを越えると、気温は15度から35度と、広い範囲になってしまうのだ。

 梅雨はちょうどこの条件にぴったりの季節だから、夏よりかえってものが腐りやすくなるのである。


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今日の面白雑学(6月22日)

〔シェフは何故スカーフをする?〕

 西洋料理のシェフはよく首にスカーフのようなものを結んでいる。

 実は、もともと、あのスカーフのようなものは、料理長だけがつけたものであった。

 昔は料理長だけしか冷蔵庫に入ることを許されなかったので、冷蔵庫に入った時の寒さを防ぐためにスカーフをつけたというのである。それがいつしか料理人のシンボルに変化したのである。


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今日の面白雑学(6月23日)

〔初の駅弁はおにぎり弁当〕

 新幹線開業によって、東北への旅もスピードアップされたが、東北本線(東京~宇都宮間)が開通したのは明治18年のことである。

 そのとき宇都宮駅で初めて「駅弁」が売り出され、人気を博した。

 この駅弁は、梅干し入りのごま塩おにぎり2個とタクアンで5銭だった。

 今からみれば素朴な弁当だが、当時は白い米はまだぜいたく品だった。ソバ一杯の値段が八厘という時代だから、駅弁はかなり高価なお弁当だったのだ。


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今日の面白雑学(6月24日)

〔大雨の記録〕

 梅雨の終わり頃になると、集中豪雨が発生することがある。

 かつて長崎地方で24時間に1109.2ミリの大雨を記録したことがあったが、雨が流れないで溜まったとすると、1.1メートルもの高さになる雨量だった。

 大雨の原因は、活発な梅雨前線に南の海上の台風が次々と湿った空気を送り込み、水蒸気の補給をするからだ。局地的な大雨ほど予報が難しいという。

 最近では、地球温暖化の影響なのか、全世界で極端な異常気象が発生している。日本でも各地で毎年のように集中豪雨が発生し、大きな被害が出ている。


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今日の面白雑学(6月25日)

〔畳の由来〕

 部屋の広さを六畳、四畳半と畳の枚数で表現するように、日本家屋の場合、すべての基準になるのが畳の大きさである。

 もともと、幅三尺、長さ六尺という畳の標準的な寸法は、人間一人が寝たときの寸法に合わせて作られたものだ。

 これはもともと畳が寝床だったからからである。その昔、土間にワラを敷いて寝ていたのが、板張りの床になって寝床が今のような畳に発展し、やがてその上に布団を敷いて寝るようになったのだ。

 昔の人達にとって、畳の部屋というのは、一種の憧れの存在だったのである。今でさえ、故老たちは、冗談半分ではあるが、「畳の上で死にたい」などということがある。


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今日の面白雑学(6月26日)

〔国産製石鹸の第一号〕

 石鹸はその昔、シャボンと呼ばれ、外国渡りの貴重品だった。現在でも、シャボン玉という言葉に名残がある。

 はじめて見た人は使い方も分からず、鍋に入れて煮てみたら泡が立つばかりだったという笑い話もある。

 横須賀造船所に働いていた堤磯右衛門という人が、外国人から手渡された石鹸で手を洗ったら、汚れ落ちの良さにびっくりしたという逸話も残っている。

 苦心惨憺して石鹸を作り、明治6年に売り出したのが、国産石鹸の始まりであった。


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今日の面白雑学(6月27日)

〔ペンネームあれこれ〕

 今日の雑学は、別に日付とは何の関係もないのだが、結構おもしろいのでペンネームの話を掲載してみた。作家のペンネームの由来もさまざまである。

 永井荷風は、初恋の人・お蓮さんにちなみ、蓮の字を荷にかえ、その香りを慕うという意味でつけたというロマンティックなものだという。

 これに対して二葉亭四迷は、「くたばってしまえ」をもじってつけた皮肉っぽい名前だった。

 推理作家のなかには、アナグラム(名前を構成する50音やアルファベットの文字を並びかえた暗号のようなもの)を使ってペンネームにした人もいるとか。


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今日の面白雑学(6月28日)

〔洋酒の日本登場はいつ〕

 室町時代にも南蛮船が将軍に南蛮酒を献上しているが、ウイスキーやブランデーなどの洋酒を日本人が知ったのは、幕末になって外国人が大勢やってくるようになってからである。

 日米和親条約調印の際には、米国から将軍や幕閣にウイスキーやブランデーが献上された。洋酒は瞬く間に広がり、明治の初期には日本人の需要を目的としてジンが輸入されている。


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今日の面白雑学(6月29日)

〔神社ではなぜ柏手を打つか〕

 歴史の時間に誰もが習った「魏志倭人伝」には、偉い人に会ったときは手を打つ、という意味の記述がある。

 いわば現代の握手のようなもので、魂振(たまふり)といって、手を叩く音で神様を招き、お互いを祝福するという意味があった。

 神社で柏手を打つのもここからきた風習で、神様を招くために手を打って音を立てているのである。


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今日の面白雑学(6月30日)

〔てるてる坊主の起こりは?〕

 天気が晴れるようにとお願いをする「てるてる坊主」の元になったのは、中国の掃晴娘(サオチンニャン)人形だといわれる。

 赤と緑の着物を着せてほうきを持たせ、軒に吊るして晴れを祈ったのが日本に伝わったものなのである。

 平安時代の本にも書かれていることから、ずいぶん昔に伝わったもののようだ。現在では「てるてる坊主」というが、古くは「てれてれ坊主」とか、「てりてり法師」とも呼ばれていた。



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